【横浜大空襲73年】平和つなぐ(5)横須賀も標的だった|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【横浜大空襲73年】平和つなぐ(5)横須賀も標的だった

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/06/04 02:00 更新:2018/06/04 02:00
 「空襲のなかった街」。まことしやかに言われ、戦後生まれの市民の多くがそう信じ込んでいる横須賀で、だが確かに、空襲はあり、死者も出た。

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 1945年夏。富貴沢生穂さん(86)=葉山町=は旧制中学校の県立横須賀工業学校(現・県立横須賀工業高校、横須賀市公郷町)で授業を受けていた。

 午前10時ごろ、ラジオから警戒警報が鳴った。「空襲だから帰れ」。教壇にいた先生が告げる。敗戦間際のこの頃になると、週に2回は警戒警報が鳴った。「もう特別なことじゃなくなっていた」

 学校最寄りの堀ノ内駅から、湘南電鉄(現・京急電鉄)に乗り込む。車内には同じ学校の生徒が5、6人。電車はいつものように動きだし、自宅のある湘南田浦駅(現・京急田浦駅)に近づいた。

 「ブーン」。突如、米軍艦載機の低く、うなるような飛行音。弟、妹たちのことが急に心配になった。その瞬間…。

 「バリバリバリバリバリ…」。トンネルを抜けた列車に、機銃掃射が浴びせられた。反射的に、床に伏せた。銃弾は線路や周囲の砂利に当たる。その間、5、6秒。「今思えば、もっと短かったかもしれない」と富貴沢さん。死への恐怖が、時間を長く感じさせた。電車は加速し、次のトンネルに逃げ込む。みな、無事だった。パイロットの狙いが外れたのか、それとも、わざと外したのか。今もそれは分からない。「死ななくて良かった。とにかくホッとした」。富貴沢さんは言葉少なに振り返る。

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 敗戦後、米海軍は、旧海軍の中枢部だった横須賀海軍工廠(こうしょう)などを接収。横須賀を事実上の母港とする艦船は13隻まで増え、米海軍横須賀基地は今や米国のアジア太平洋戦略の重要拠点になった。

 「米国が戦後に基地として利用するつもりだったから」。横須賀で空襲がなかったと言われる際、必ず一緒につく“枕ことば”だ。戦後の歩みを見れば、思わず納得しそうにもなる。だが、横須賀市自然・人文博物館の安池尋幸学芸員(64)は、それを一蹴する。「戦後生まれの市民に広がる都市伝説。大きな間違いだ」

 米国内の戦意を高めるため、42年に米軍が実施した日本本土への初空襲(ドーリットル空襲)で、横須賀はターゲットの一つにされ、軍港内に爆弾を投下された。11歳だった富貴沢さんも南から北に向かう爆撃機を目撃している。

 市民有志による聞き取り調査によれば、米軍機が落とした爆弾で木が倒れ、下敷きになった山中町の男性が死亡している。45年には、艦載機からの機銃掃射も複数回あった。安池学芸員は言葉に力を込める。「横浜や川崎といった人口の多い都市があったから、横須賀は局所的にとどまっただけ。空襲が、被害がなかったわけでは決してない」

 戦争の恐怖を身をもって味わった富貴沢さんは今、機銃掃射に襲われた経験も、戦後の物資不足のつらさも、若い世代に教訓にしてほしいとは思っていない。なぜならば、と続ける。「教訓にするということは、それだけ戦争が近づいているということ。教訓すら要らない平和な社会、時代であってほしい」

 横須賀の空襲 初めての空襲は、真珠湾攻撃から約4カ月後の1942年4月18日の「ドーリットル空襲」。米軍空母ホーネットから16機のB25爆撃機が飛び立ち、東京をはじめとする京浜地区や横須賀、名古屋、神戸を襲った。安池尋幸学芸員監修の「新稿 三浦半島通史」によると、この空襲で計約200人が死傷した。その後、45年には空母艦載機からの機銃掃射が複数回、横須賀で行われた。

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