【横浜大空襲73年】平和つなぐ(2)共助 華僑と日本人と|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【横浜大空襲73年】平和つなぐ(2)共助 華僑と日本人と

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/05/30 02:00 更新:2018/06/03 21:06
 年間約2100万人が訪れる日本有数の観光地、横浜中華街(横浜市中区)。春の修学旅行シーズンを迎え、観光客でごった返す中華街大通りの人波を曽徳深さん(78)=同=が器用にすり抜けていく。人影がまばらな路地裏に入り、手相占いの店先で立ち止まって大きく両手を広げた。

 「ここに小さな防空壕(ごう)があったんです。それがなかったら、私はいなかったかもしれません」

 曽さんは中国・広東省出身の父の代から中華街に暮らす「老華僑」。中国茶などを輸入する貿易会社や中華料理店を経営する傍ら、横浜華僑総会顧問や横浜山手中華学校の理事長も務める華僑たちのまとめ役の一人だ。1945年5月29日の横浜大空襲。当時5歳。記憶は断片ながら、いまも脳裏に焼き付いている。

 「空襲だ!」。自宅近くを通りかかった人の叫び声に気付き、すぐさま表に飛び出した。父は仕事で不在。祖母と母、2人の姉、3歳の弟とともに、自宅前の通りに掘った壕へ逃げ込んだ。腰高ほどの深さの穴にトタン屋根をかぶせただけの狭い空間に身を寄せ合い、息をひそめた。

 どれくらいたっただろう。誰かがトタンを激しくたたく音が聞こえ、「火が迫っているぞ、逃げろ」。慌てて脱け出し、山下公園まで一度も振り返らず走った。爆撃機や焼夷(しょうい)弾が落ちてくる様子は見ていない。ただ、港の沖から「ボン、ボン」という音だけが響いていた。

 山下公園から中華街一帯は見渡す限りの焼け野原。空襲を免れた「ホテルニューグランド」の広間が開放され、一夜を明かした。翌日、近くの炊き出しで配られた焦げ臭いおにぎりをほおばった。父とどこで再会したのか、食料をどう確保したのか、その後のことは何も覚えていない。

 終戦後、中国が連合国の一員だったため、中華街には優先的に物資が配給された。両親が中華街大通りに購入したバラック小屋の前で、配給の油や小麦粉、砂糖で作ったドーナツを販売すると、長蛇の列ができた。「国同士が戦争しても、隣近所で暮らしてきた華僑と日本人は助け合っていた。嫌な思いをしたことは一度もない」と振り返る。

 あれから73年。断片の記憶しかなく、けがをしたわけでもない。被害者意識のない自分が物知り顔で戦争の悲惨さを語ればうそになってしまうと、自ら積極的に話すことはほとんどなかった。それでも声が掛かれば空襲体験や当時の中華街の様子を講演してきた。

 日中関係の動向に左右される横浜中華街。国籍や文化の違いを認め合い、戦後の混乱期を乗り越えてきた。ともに育んできた草の根交流や平和の尊さが身にしみているからこそ、伝えられることがある。

 曽さんは静かな口調で言った。「まずは相手を知ること。知らないから想像だけで排除してしまう。互いに顔を突き合わせて現状を知り、理解し合う。全てはそこから始まるんだと思います」

思いを次世代へ


 死者8千人超とも推定される横浜大空襲から73年となった29日、横浜市内では犠牲者を悼み、後世に語り継ぐ催しが開かれた。

 犠牲者遺族でつくる横浜戦災遺族会が大通り公園(同市中区)に建立した平和祈念碑では、内部を公開。市立南吉田小学校や市立横浜吉田中学校の児童生徒らは、犠牲者約千人の名前と年齢が刻まれた御影石を前に、遺族の説明に聞き入った。

 遺族会は高齢化し、14年に碑を市に寄付した。会長の池谷倫代さん(63)は遺族会を「ピースメッセンジャーの会」に改組する考えで「空襲の記憶が薄れつつある今こそ、戦争の悲惨さや平和の尊さをみんなで語り合うことが求められている」と話した。

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