【横浜大空襲73年】平和つなぐ(1)生死分けた青木橋|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【横浜大空襲73年】平和つなぐ(1)生死分けた青木橋

横浜大空襲の体験を語る福田さん=横浜市港南区

 穏やかな五月晴れは、あっという間に暗闇へと変わった。焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、街が燃え、立ち上る黒煙が空を覆った。福田三郎さん(86)=横浜市港南区=は当時13歳。「あの時、左に曲がっていたら命はなかった」。生死を分けた選択だった。

 1945年5月29日午前9時半ごろ、福田さんが動員先の横浜駅西口近くの軍需工場に着いて間もなく、空襲警報が鳴り響いた。屋外に出ると、すでに米軍のB29爆撃機やP51戦闘機の大群が飛来していた。B29が低空から次々と焼夷弾を落とし、P51が機銃掃射を繰り返す。「平然と無差別に攻撃するパイロットの無表情が忘れられない」

 熱風が吹き付け、火の粉が舞い散る。「とにかく熱かった」。福田さんは友人と運河に飛び込み、ぬれた手拭いで口と鼻を押さえながら、自宅近くの青木橋(同市神奈川区)を目指した。道幅が広く、眼下に線路が走り、燃える物がないと考えたからだった。

 道すがら、数多の遺体を目にした。「地獄を見たことはないが、あれこそが地獄でしょう」。全身が黒く焼けただれた負傷者のギョロギョロと動く目の白さが印象に残る。

 たどり着いた青木橋付近でも焼夷弾に襲われた。爆発音をかき分けて「カチン、カチン」と線路に当たる音が鳴り響く。「ここでも駄目だ」と移動を決断した。左手にある鉄道のトンネルに入れば米軍機からは見えず、焼夷弾や機銃掃射を浴びないとも思えた。ただ、右に曲がれば公園があり、燃えやすい木造家屋がないと知っていた。迷わず足を向けた。

 翌日、再び青木橋付近を訪れ、その判断が正しかったと知った。トンネル内では多くの人が焼け死んでいた。「蒸し焼き状態。熱く、息もできず、苦しかったことでしょう」 

 ◆横浜大空襲 1945年5月29日午前9時20分ごろから約1時間、米軍のB29爆撃機517機などが横浜市中、南、西、神奈川区を中心に行った無差別爆撃。市中心部は壊滅的な被害を受けた。県のまとめによると、死者3650人、負傷者は1万198人。実態は不明な点も多く、死者は8千人以上とも、1万人以上ともいわれる。


 

悲惨な戦禍 語り継ぐ



 1945年5月29日午前、当時13歳だった福田三郎さん(86)=横浜市港南区=は降り注ぐ焼夷(しょうい)弾に追われていた。自宅近くの同市神奈川区の公園に逃れると、園内のあずまやには既に多くの人々が避難していた。働き盛りの男性はみな戦地に駆り出されているのだろう。お年寄りや女性、子どもばかりだった。

 赤ちゃんに覆いかぶさるように若い女性が倒れ、絶命していた。「必死にわが子を守ろうとしたんでしょう。ふびんに思いつつも、自分が生き延びることで精いっぱい。手をさし伸べる余裕がなく、申し訳ないとの思いが募った」

 街は焼き尽くされ、一面の焼け野原。焼失した自宅を何とか探し当て、夕方までには同居する家族6人と無事に再会した。食料はなく、地面を這(は)う水道管からわずかに染み出る泥水をすすり、飢えをしのぐ。4日目にようやく冷凍のふかし芋が1本支給され、むさぼるようにかじりつき、生きていると実感した。焼け残ったトタンを拾い集めて親戚宅の敷地内にバラック小屋を建て、家族7人で身を寄せ合った。

 8月15日。玉音放送があると人づてに聞き、横浜駅に行けば聞けるだろうと、友人と2人で足を運んだ。大人たちに交じってひざまずき、昭和天皇の肉声を初めて聞いた。

 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」。雑音の中で唯一聞き取れた言葉で敗戦を実感した。日清戦争以降、日本が戦争に負けたことはないと、必勝を信じ込まされた軍国少年だった。「アジア諸国を侵略した日本が今度は同じような目に遭うのではないか」。子どもながらに不安が募った。

 「楽しい思い出ではない。残酷で人に話せる内容でない」と、福田さんは73歳まで家族にさえ戦争体験を語ることはなかった。転機は2005年5月、市内で横浜大空襲の写真展が開催されていると知り、「元気なうちに、あのすさまじい状況を伝えなくては」と考えるようになった。以来、小学生を中心に体験を語り続ける。

 子どもたちから寄せられる感想文には「戦争は怖いと思った」「平和を大事にしたい」との言葉が並ぶ。外国にルーツを持つ生徒が多い中学校で講演した際には、日本語がつたない生徒が1、2行でも思いをつづってくれ、「話して良かった」とかみしめた。

 世界に目を向ければ、今も戦争や紛争が後を絶たない。テロも相次ぐ。16年にバングラデシュで発生した飲食店襲撃テロでは、遠戚の日本人女性が犠牲となった。現地の発展に協力したいという志半ばで命を絶たれた無念を思う。

 だからこそ、命の大切さを説き、「爆弾を積んで敵に突っ込んだ旧日本軍のやり方も、今日の自爆テロと変わらない」と考える。攻撃の対象が軍人であろうと一般市民であろうと、敵味方双方が命を落とし、ともに嘆き悲しむ家族がいることに変わりはない。

 「勝っても負けても多くの人命が奪われる。戦争は二度としてはならない」。市民を巻き込む絨毯(じゅうたん)爆撃の体験者として、戦争の悲惨さを語り、平和の大切さを伝え続ける。
 
横浜大空襲から29日で73年。第2次大戦末期、連合国軍による無差別爆撃が県内各地で繰り返され、多くの市民が犠牲となった。体験者を訪ね、平和をつなぐ人々を追った。

PR