神奈川新聞と戦争(70)1931年 空襲は「自衛のため」|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(70)1931年 空襲は「自衛のため」

 満州事変下の1931年10月8日、関東軍が中国東北部・錦州に対して行った空襲は、戦略爆撃の先駆けだった。軍事ジャーナリストの前田哲男は著書「戦略爆撃の思想」で「国際的反響の面でも日本軍機の行動に手きびしい非難の集中する最初の事例となった」とその評価を解説した。

 本紙の前身、横浜貿易新報(横貿)は翌日の紙面で「錦州事件に関し八日夕刻外務、陸軍両当局は緊急協議の結果政府は右事件の性質を左の如く解釈する事となつた」とし、政府見解を次のように伝えた。

 「即(すなわ)ち錦州事件は満州地方出先軍隊が地方治安維持のため自衛上已(や)むを得ず行つた地方的処置で本国政府は右事件の重要性を認めない」。空襲は「自衛」のためだと正当化し、また局地的な紛争でしかない、と過小評価するのだった。

 さらに、抗日勢力の主軸だった軍閥、張学良が拠点を錦州に移したことを挙げ「錦州政府が不穏の計画を表示したものと認められ日本軍隊が右の如(ごと)き行動に出でたと認めらる」(太字のゴシックで)と、中国側に責任を転嫁した。

 関東軍の装備は貧弱だった。出撃した11機のうち、6機には「爆弾照準器も爆弾懸吊装置も装備されておらず(略)二五キロ爆弾四発ずつを真田紐(ひも)で機外に吊(つ)るし、目標上空に達すると目測によって紐を緩め、爆弾を投下」するありさまだった。結果は「日本側の判定によっても半分以上が目標を逸(そ)れて爆発した」(前掲書)。軍事施設と関係のない病院や大学が被弾し、市民が死傷した。

 翌年、国際連盟の調査は日本側が主張する「自衛」に疑問を呈し、無差別爆撃だったと示唆した。一方で爆撃を立案した石原莞爾は、敗戦後の東京裁判の供述書で「多少弾丸が他に散ったかもしれませんが(略)広島・長崎における原子爆弾投下の惨害に比したならば殆(ほとん)ど問題にならない」(同)と述べた。

 前田は錦州爆撃に踏み出した石原の狙いを、張学良への対抗だけでなく、事変不拡大の方針だった幣原喜重郎外相の国際協調主義外交への対抗としても定めていた、とみる。果たして石原は「東京政府の不拡大政策に対抗して『あとに退(ひ)けぬ情勢』を強要する政略目的」(同)を達成した。

 横貿は「地方的処置」とした政府による爆撃の過小評価をなぞった。もちろん歴史の評価は異なる。

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