やり遂げる執念と信念 大阪桐蔭監督 西谷浩一(下)|カナロコ|神奈川新聞ニュース

やり遂げる執念と信念 大阪桐蔭監督 西谷浩一(下)

全国のライバル編 67/100

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/03/23 02:00 更新:2018/03/23 02:00
神奈川高校野球100回大会 兵庫生まれの野球少年にとって、ツタに囲まれたその球場は、夢そのものだった。小学6年の夏、地元の報徳学園が金村義明(元近鉄など)を擁して頂点に立ち、進学先はここと決めた。

 だが甲子園は近くて遠い存在だった。西谷浩一(48)の現役時代は、部内で起きた暴力事件により、公式戦の出場は2年秋の県大会だけで終わってしまった。

 関西大では4年時に主将を任されたが肩を壊し、裏方としてチームをまとめた。優れたリーダーシップに目を付けたのが、わずか創部4年目の1991年に全国制覇を成し遂げた当時の大阪桐蔭の監督・長澤和雄だった。

 93年にコーチとして同校に赴任し、98年からは指揮を引き継いだ。大阪桐蔭は全国制覇以降、甲子園から遠ざかっていた。2002年夏に「勝てない時代」に終止符を打ったが、自らを虜(とりこ)にした日本一という夢もまた、近くて遠かった。

 05年夏準決勝の駒大苫小牧(南北海道)、06年夏2回戦の早実(東東京)、07年春準々決勝の常葉菊川(静岡)。大阪桐蔭を退けたチームがいずれも、大会のチャンピオンとなったのだ。頂点を目前にして打ちのめされ、自らになにがしかの変化が求められていることは、間違いなかった。

 「3年連続で日本一になるチームに負けて、僕の中でも何となく見えてきたものがあった。ではそれをどうチームに植え付けていくかという段階で始まったのが、07年秋からの新チームでした」

 中田翔(日本ハム)という絶対的存在が抜けた後だからこそ、大事な1年でもあった。そして臨んだ秋の大阪府大会だったが、準々決勝でPL学園に全く歯が立たず、0-9のコールド負けを喫した。

 漏れ聞こえてきたのは、こんな声だった。「やっぱり桐蔭は中田頼みやってんな。中田が抜ければ、たいしたことあらへん」

 西谷は苦悩した。

 「その代の子たちはみんな一生懸命やるし、非常にまじめ。でも中田の代と比べると全然自信がない。そしてPLにボロ負けして、自分たちのひ弱さを突きつけられた。僕自身も『中田がいなくなったら終わり』みたいに言われたくなかったし、勝てない時代に戻るのは嫌だし、非常に危機感があったんです」
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