神奈川新聞と戦争(67)1933年 命より重い「御真影」|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(67)1933年 命より重い「御真影」

1933年8月11日の横浜貿易新報1面。題字の下に「御真影を幸ケ谷校に奉遷」の袖見出しが

 「神奈川小学校 火災を起し」の見出しが、1933年8月11日の横浜貿易新報(本紙の前身)の1面に掲げられた。関東防空大演習の話である。

 「神奈川区防護団本部のベルはけたゝましくなつて午前九時と云(い)ふに六角橋付近は早くも敵襲を受け(略)敵機の投下焼夷(しょうい)弾、爆弾に見舞はれ惨禍は随所に展開」との書き出しに続き、浅間町三叉(さんさ)路、南綱島、神奈川会館(区内にあったホール)、神奈川通六丁目、七丁目、九丁目と、具体的な地名を挙げて“被害”を報告した。

 30行足らずの小さなこの記事で、注目すべきは「御真影を幸ケ谷校に奉遷」とした袖見出しだ。本文の記述はわずか3行。「殊に神奈川小学校は猛火をあび御真影を幸ケ谷校に移し奉(たてまつ)つた」と記されただけだ。

 だが、その持つ意味は重い。「御真影」とは天皇、皇后の写真である。記事は「御真影」を他の校舎に移したてん末(まつ)について「移し奉つた」と、皇族に用いる最高敬語で記している。

 水島朝穂、大前治著「検証防空法」によると、この演習の3年後までに、全国ほぼ全ての小中学校に「御真影」が備えられ、教育勅語の謄本と合わせ、安置所である「奉安殿」に収められた。校舎は木造なのに奉安殿は頑丈なコンクリート造、という例もあった。

 同書は「戦時色ただよう学校現場で、何よりも大切にされたのが、天皇と皇后の写真をおさめた『御真影』である」と指摘する。同演習の10年後、太平洋戦争下の43年に文部省が定めた学校防空指針は、奉安殿の緊急整備を掲げた。児童生徒が避難するための施設は二の次だった。

 「御真影」のために命を落とした教員は45年だけで、全国で10人に上ったという。奉安殿の「守備」を任され亡くなった中学生もいた。だが、天皇の写真を神聖視する思想は、戦時の産物ではない。同書によると、既に明治期には、津波や火災から「御真影」を守ろうとした教員らが犠牲になり、それが美談として喧伝(けんでん)されていた。

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