神奈川新聞と戦争(66)1933年 「私」を捨てる価値観|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(66)1933年 「私」を捨てる価値観

探照灯の勇ましさを強調した1933年8月11日の横浜貿易新報4面

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 「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」と題した社説で演習を批判した信濃毎日新聞の主筆、桐生悠々は、在郷軍人でつくる政治結社の圧力を受け、社を追われた。社説の載った1933年当時の首相は、海軍出身の斎藤実。前年、海軍の青年将校が犬養毅首相を暗殺した五・一五事件で、大正以来の政党内閣は崩壊した。

 軍部の台頭と、言論に対する圧力の強まり。その象徴である桐生の「事件」はしかし、紙面上で軍や政府の批判を展開する余地がまだあったことも示す。反発を予想しながらも、言論に懸けたのが、桐生だった。

 改めて、演習を巡る本紙の前身、横浜貿易新報の報道を振り返る。桐生の社説が掲載された同じ日、8月11日。論調は対照的だった。

 「空中眼つぶし…空に釘(くぎ)づけになつた敵機」の説明を添えた、夜景の図がある。桐生は、首都上空に敵機の侵入を許した時点で、その戦争は負けである、と冷静に指摘したが、この写真だけを見れば、敵機を逃すまいとする深照灯の光跡が勇ましい。

 家庭欄には「防空美談」「妻の分娩(ぶんべん)を前に其(その)任務に急ぐ 涙ぐましい勇敢な防護団員」の見出し。「このお話は空魔の襲来と連日戦つてゐる港北の金港分団に咲いた感激の花です」と、文字通りの「美談」を強調した。防火班員だった豆腐商の青年が、妻のお産をよそに演習に赴いた、という話だ。

 「私事に当るべきか、公事に邁進(まいしん)すべきかに悩みました。しかし将来の日本を思ひ、空襲下の横浜市を想念するとき、すべての悩みは朝風に霧が霽(は)れて行く様に爽快になつてくるのを覚へました『行かう!すべてを捨て!』」。出産という人生の大事も、空襲(しかも演習)の前には「すべてを捨て」るべきもの、との価値観に貫かれている。

 防護団の団長は「極力このまゝ職務を捨てゝ家庭に帰ることを説いた」が、男性は妻の言葉も引いてこれを拒んだ。いわく「妻も演習とは云(い)へ一旦(いったん)有事の起つた時を思へば演習だからと云つて安閑と家には居られないのだから、私にかまはず国のために行つてくれと云はれて居り」。夫婦そろっての報国精神に、団員は「俺達もやるのだ!」と感激。「この大熱血心があればこそ神国日本の基礎は揺るがぬ」と美辞麗句がつづられた。

 家庭欄に、それも「ですます調」で記されたこの記事は、明らかに主婦に向けたものだった。「私にかまはず国のために行つてくれ」と夫に言う妻こそ理想的だ、との意識を植え付けるためである。実際、そうすり込まれた女性たちが、大戦末期の本土空襲の犠牲になる例が相次いだ。

 水島朝穂、大前治著「検証防空法」の冒頭に、45年3月の大阪市の例が挙げられている。空襲が始まったとき、7歳だったある女性は母親から「親は家を守らないといけないから、あんたはお姉ちゃんと一緒に逃げなさい」と言われた。防空法制によって「応急消火」が義務化され、大人の避難は許されなかった。男は兵役か軍需産業への動員で不在が多かった。

 女性の母親は家に残り、亡くなったという。2008年、女性は「大阪空襲訴訟」の原告の一人として、政府の責任を問うた。

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