【減災新聞】とにかく生き延びて 平塚むすび塾(上)語り部|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【減災新聞】とにかく生き延びて 平塚むすび塾(上)語り部

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/02/11 16:35 更新:2018/02/11 16:35
 巨大津波に多くの命が奪われた東日本大震災の教訓を広く共有し、地域の備えに生かす東北のブロック紙・河北新報社(仙台市)の防災企画「むすび塾」が3、4の両日、神奈川新聞社との共催で、平塚市内で行われた。3日の防災講演会(平塚市主催)に登壇したのは、宮城県内で被災した3人の語り部。苦難の経験から強く訴えたのは、生き延びることの大切さだった。

津波なめてしまった


宮城県亘理町
菊池 敏夫さん(68)


 亘理町(人口約3万4千人)の面積は平塚市とほぼ同じで、その半分が津波にのまれた。私が住んでいた海沿いの荒浜地区には阿武隈川も流れており、三方向から水に囲まれた。

 津波が襲ってきたのは、2011年3月11日午後3時57分ごろ。地震の1時間後、津波は来ないと安心していたころだったが、亘理町では250人以上が犠牲者になった。荒浜地区で亡くなったのはお年寄りばかりで、小中学生から犠牲者は出なかった。

 荒浜小は下校途中の児童らを呼び戻し、校舎の上に避難させた。迎えに来た保護者も帰さず、校長の判断で一緒に避難させた。もし帰していたら、津波に流されていただろう。

 私は地域の人に避難を呼び掛けたが、何が何でも逃げろとは伝えなかった。あんなに大きい津波が来るとは想像しなかった。命にかかわることになるとは思わなかったので、掛ける言葉が甘かった。もっと強く呼び掛ければよかった。

 近くの町役場支所の屋上で津波を目撃した。海岸の松林がのまれ、海岸から300メートルほど離れた私の家も、隣の家もみんな流された。そのときになってやっと、ただごとじゃないと思った。大津波とはこういうものかと膝が震えた。

 荒浜には津波が来ないという言い伝えがあった。遠浅だから、押し寄せてきたとしても低い。津波が川を流れていくから荒浜は大丈夫。確かに1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波、60年のチリ地震津波と、岩手県では大きな犠牲が出たのに、荒浜では犠牲者がなかったり、少なかったりした。どうしても、津波のことをなめてしまうところがあった。

 災害は想定外。最悪を考えて準備しておくべきだ。避難ビルはどこか、避難タワーどこか、避難時に使う道路はどれか、そこが通れなかったらどうするか。ビルに着いても、停電していたら自動ドアは開かない。夜だったらどうか。避難場所まで歩いて何分か。走ったらどれほどか。

 亘理町は1時間ほどで津波が襲ってきたが、平塚市はもっと時間が短い想定。津波が50センチもあれば立っていられない。津波は自転車より速い。がれきやガラス、割れた物なども一緒に流されてくる。泳ぐことなんてできない。ライフジャケットがあれば、少しぐらいは浮いていられるかもしれないが。何とか命をつなぐ方法を考えてほしい。

ふるさと奪い去られ


宮城県塩釜市      
高橋 匡美(きょうみ)さん(52)


 母と最後に会ったのは、2011年2月27日。仙台に行き、買い物やランチを楽しんだ。電車に乗っていた母と手を振って別れたが、あれが最後になってしまうなんて。

 私のふるさとは石巻市南浜町。父は頑固者だが、私と息子には優しい。母は明るくて友達も多く、美人だった。母が大好きだった。ふるさとはずっとその場所にあると思っていたが、何の前触れもなく壊され、奪い去られてしまう。それが災害だと思い知らされた。

 南浜町にたどり着けたのは3月14日、車を乗り捨てて線路の上を歩いた。戻ってくる人に状況を聞き、足を止めてくれた年配の夫婦が言った。 「今から南浜町に行くの? ああいうのが地獄って言うんだね」

 歩みを速めて近づくと、その凄惨(せいさん)な光景に立ち尽くした。家や車がひねりつぶされて、かきまぜられて、折り重なっていた。隣にいた当時高校2年の息子がつぶやいた。

 「これって、戦争の跡?」

 目を凝らすと、家が残っていた。やっとの思いでたどり着くと、そこに父と母の姿はなかった。避難所に逃げていると思い、玄関を出ようとした時、息子がもう1度見ようと言う。

 家に再び入り中を進むと、足元に母が小さくなって倒れていた。何度も尻もちをつきながら仰向けにすると、顔に泥と砂がびっしりと付いていた。ペットボトルのお茶で洗い流すと穏やかな顔をしていたが、二度と目を開けてくれなかった。

 父を見つけられたのは3月26日。遺体安置所の身元不明の写真一覧の中からだった。目を見開いた人、水を含み膨らんでいる人、顔が真っ黒にになった女の人。父の足には特徴的な傷跡があり、確認できた。

 あれから6年11カ月になるが、私はまだ暗いトンネルの中。あの日の父や母のように、生きたくても生きられなかったたくさんの命がある。助かったのに生きる希望を奪われ、消えていくしかない命も。私も死にたいと思ったが、今こうして生きている。

 震災を忘れると被災地がかわいそうだと思うかもしれない。でも、震災を忘れないのは、私たちのためじゃなく、皆さんのため。震災は明日ここで起きるかもしれない。揺れたらとにかく逃げて。海や川から遠いところへ、より安全なところへ。逃げる、戻らない、戻らせない、を約束してほしい。とにかく逃げ延びて、自分の命を守って。

「バイバイ」今も後悔


宮城県東松島市     
添田 あみさん(19)


 震災前も今も、東松島市の大曲という所に住んでいる。震災時は小学6年で1週間後に卒業式を控えていた。卒業制作中に突き上げるような揺れがあり、パニック状態に。声を上げて泣いていたら、先生の「泣けるってことは生きている証拠。少し落ち着きなさい」という言葉でハッとさせられ、少し落ち着いた。雪が降っていて寒かったが、先生からは上着を着るのではなく、持つように指示された。防災ずきん代わりにするためだ。

 校庭に避難してしゃがんでいると、一緒に登校していたグループの女の子の母親が迎えに来てくれた。自宅までは歩いて5分ほど。帰る時に親友に何げなく「バイバイ」と言って別れた。

 家は足の踏み場がなかったので、小学校で過ごすことに。ペットボトルのお茶などを準備していると、地域の人が走っていた。「何してんの。水来てるから早く逃げな」と言われ、何の水だろうと思いながら走った。津波と追い掛けっこするようにして学校に着き、先生の指示で3階に駆け上がった。校庭を見ると木やがれき、車が大きな渦を巻き、洗濯機のようだった。少し遅れていたら、助からなかった。流されそうな家の屋根の上で助けを求める人がいたが、何もできず、自然の怖さと自分の小ささを知った。

 悪い夢であってと願ったが、朝になると車がひっくり返っていたりして、現実だと思い知らされた。水が引いても、1週間以上家に帰れなかった。私の家は平屋なので、逃げ込む所がない。日常が一瞬で壊された。

 3月31日に延期された卒業式で、私の親友が亡くなったという悲しい知らせがあった。親が迎えに来て海沿いの自宅に帰り、津波にのまれてしまったという。最後に交わした言葉は「バイバイ」だったが、「津波が来るから、絶対に帰っちゃ駄目」と言っておけば、助かったかもしれない。今も後悔している。

 皆さんに覚えてほしいことがある。(1)ここまで津波は来ないと勝手に決めつけない(2)避難したら絶対に戻らない(3)いつでも逃げられる準備をしておく(4)逃げる場所を準備しておく-の四つだ。

 平塚市は最悪の場合、地震の6分後に9・6メートルの津波が来る想定だが、もっと時間が短かったり、高かったりすることがあるかもしれない。命よりも大切なものなんてない。命を最優先に、真っ先に避難してほしい。

マイナスをプラスに



10代語り部の思い
小山 綾さん(18)


 東日本大震災の津波で親友を亡くした経験を明かした東松島市の添田あみさん(19)は、同世代の女子でつくる語り部グループ「TTT」に昨年夏から所属。むすび塾の講演会では、TTTメンバーの大学1年小山綾さん(18)がグループの特徴や思いを語った。

 「TTTはTSUNAGU Teenager Tourguide of Higashimatsushimaの略。高校生2年生2人、大学生1年生3人、進学で地元を離れ主に関東で活動するメンバー1人の計6人。現地学習や観光、ボランティアで東松島市を訪ねた人を対象にガイドや学習会を行っているのに加え、これまでに出張講演も数十回重ね、北海道や熊本でも震災の経験を伝えている。自分たちも震災以前のまちを忘れずに記憶の風化を防ぐため、被災体験のマイナスをプラスに変えるためでもある。さらに、自分なりの将来展望を織り込みながら活動している。これからの防災をどうしていくべきか。さらに一歩踏み込んで、私たちが生きる上で大切なことは何なのかということも意識しながら、考えを語っている」

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