16歳、運命受け入れ 東海大相模 原辰徳(上)|カナロコ|神奈川新聞ニュース

16歳、運命受け入れ 東海大相模 原辰徳(上)

スーパースター編 1/100

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2018/01/01 02:00 更新:2018/01/22 19:09
神奈川高校野球100回大会 フィーバーを起こした張本人は、どこか人ごとのように話すのだった。

 「神奈川の高校野球はすごいよね。保土ケ谷球場のわれわれの試合は、お客さんが入りきらないから川崎球場に持って行かれるわけです。(高2夏の神奈川大会準決勝で)日大高校とやった時なんかは、僕が4打席目まで敬遠されて。そうしたら、観客席から物が投げ込まれちゃってね」

 東海大相模が生んだ希代のスーパースター、原辰徳(59)が残した伝説は数知れない。ファンレターが1日数十通届いた。ファンからの電話が鳴りやまず、寮の女子マネジャーが寝不足になった。東映からは、主演映画のオファーまであった。

 1974年夏に1年生で甲子園に出場し、当時のアイドルだった鹿児島実業の定岡正二(元巨人)と延長十五回に及ぶ名勝負を繰り広げてから、日本の高校野球は「辰徳フィーバー」一色だった。

 「僕は野球が好きなだけなのに、どうして放っておいてくれないんだ」。そんな戸惑いは当然あったが、1年生の終わり頃には、捨て去っていたという。

 「あの夏から世界の景色が変わってしまった。最初はどうして自分だけと思いましたけどね。でも、逃げてもつまらなくなるだけじゃないですか。逆にこっちからも共有した方がいいなと」

 人気者であること。スターに祭り上げられること。周囲が求める「原辰徳」であること。16歳の少年は、その全てを受け入れた。後に巨人の4番打者となり、監督となり、そして侍ジャパン日本代表を率いて世界一になる「永遠の若大将」の原型が、ここにあった。

 神奈川での戦いに話を向けると、真っ先に横浜の名を挙げた。

 「当時は横浜が強くて、うちは2番か3番手。Aクラスではなかった。1年夏の決勝前に、神奈川新聞に7対3で横浜有利と書いてあって、父が、そんなことは気にするなと言ってね」

 高校時代最高の思い出を聞いた。答えはあまりに直球だった。

 「もちろん甲子園とか勝った、負けたというのはあります。でもやっぱり一番は良い友、先輩、そして後輩と同じ目標に向かって、一緒に泣いたり、喜んだりしたことですね。本当に家族や兄弟のようにね。きついことも、つらいことも、みんなで乗り越えていって」

 いわば青春そのもの。弱小校でも共感できる普遍的な「高校野球の思い出」だ。

 今夏、夏の甲子園が100回目の記念大会を迎える。常に毀誉褒貶(きよほうへん)がありながら愛され続けてきた高校野球の魅力は、そこにあるのだと力説する。

 「やっぱりね、一心不乱に一丸となって戦う。これは当たり前であるけども、非常に難しい。これが高校野球の最大の魅力だと思います」

 ただ、それは今だから言えることだ。70年代に自身が過ごした高校時代は、決してさわやかな青春では片付けられない、過酷なものだった。
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