心が静かに死んでいく 横田めぐみさん拉致40年|カナロコ|神奈川新聞ニュース

心が静かに死んでいく 横田めぐみさん拉致40年

曽我ひとみさんが語る(上)

 新潟市立寄居中1年だった横田めぐみさん=失踪当時(13)=が北朝鮮に拉致されて40年となった今月15日、拉致被害者で2002年に帰国した曽我ひとみさん(58)が同市内で講演した。家族と切り離された異国の地で味わった不安と苦しみ、一時同居していためぐみさんと支え合いながら生きてきた日々を振り返り、今も帰国がかなわない拉致被害者たちの思いを代弁した。

  1977年11月15日、バドミントン部の練習を終えためぐみさんは、下校途中に自宅近くで消息を絶った。北朝鮮側は2002年の日朝首脳会談で拉致を認め、「娘を出産し、1993年に病院で自殺した」と説明したが、後に「94年」に訂正。「遺骨」も提出したが、日本側の鑑定で別人のDNA型が検出され、北朝鮮の主張に矛盾が生じている。
  

声届くと信じ


 今日、11月15日はめぐみさんが拉致をされて40年になる日です。めぐみさんにしてみれば、またあの忌まわしい日が来てしまったと落胆する日でしょう。私もそうでしたが、拉致された日が近づくと、何とも言い表すことができない嫌な気持ちになったものでした。そして今日また、この日が来てしまった。どうして誰も私を助けに来てくれないのだろう。家族は捜索願を出していないのだろうか。誰も私がいなくなったことに気付いてないのだろうか。どうでもいいと思っているんじゃないか。1年、また1年と過ぎるごとに、私の心が少しずつ死んでいくようでした。めぐみさんや私の母をはじめ、拉致された人たちは毎日こんな思いをしているはずです。自分が拉致された日が来る度に、私のときのように、日々心が静かに死んでいくのです。

 何か支えになるものがなければ、日本に必ず帰るんだという気持ちを持ち続けることは難しいです。北朝鮮で家族を得ることも心を支える一つでしょう。周りに信用できる友達をつくることも同様でしょう。そして、日本から皆さんの声を届けることはもっと重要でしょう。地方から国へ何らかの形で声を届けましょうと、署名活動をしたり、集会を開いたりしていますが、この時だけで終わらせるのではなく、常に声を出し続けてほしいのです。どこかで北朝鮮に関係する人が耳にするかもしれません。報道を通じて、北に届くかもしれません。途切れることなく、「必ず助けるよ」との声が届くと信じて、どんな形でもいいので行動してほしいのです。

  曽我さんは1978年8月、新潟県・佐渡島で母ミヨシさん=失踪当時(46)=とともに買い物帰りに襲われ、拉致された。その数日後、北朝鮮の「招待所」と呼ばれる収容施設でめぐみさんと出会った。二人は80年に曽我さんが元米兵のチャールズ・ジェンキンスさんと結婚するまで、2度にわたり生活を共にした。

独りじゃない。


 最初の招待所で数日たった時、違う招待所に行くと言われ、迎えの車に乗り込みました。車中では、どんな場所なんだろうか、どんな生活が待っているのだろうかと、あれやこれやと想像しては不安に駆られていました。到着し、恐る恐る玄関を開けると、かわいい女の子が待っていました。(めぐみさんは)「こんにちは」と、にこにこしながら私を迎えてくれました。途端に、安堵(あんど)の息をつきました。どんなことが待っているか分からず、とても緊張していたからでしょう。「同じ日本人だ。私は独りじゃない」と、ものすごくうれしかったことを覚えています。その日から二人の生活がスタートしました。

 監視していた工作員のおばさんが一緒ですが、招待所でのルールさえ守っていれば、比較的自由に行動することはできました。数日すると、夜寝る時や、外への散歩の時などでめぐみさんと二人きりになることがあり、なぜここにいるのかを知ることができました。やはり拉致されてきたとのことでした。それからは日本のこと、家族のこと、友達のことなど、いろんな話をしました。私の妹と同じ年頃であったこともあり、二人の絆はどんどん深くなっていきました。

 ある日、(工作員の)おばさんがアイスクリームを作ってくれました。めったに食べられないので、じっくり味わいながら食べました。あっという間に食べ終わり、「もう少し食べたかったなあ」という気持ちがありました。日本のように潤沢に材料があるわけではなく、次回を楽しみにするしかなかったのですが、ふとアイス製造器を見ると、中にアイスが残っているのが見えました。二人で指を突っ込み食べ始めました。もう夢中で...

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