米軍機墜落“事件”横浜と沖縄【8】無念や痛み絵に込め|カナロコ|神奈川新聞ニュース

米軍機墜落“事件”横浜と沖縄【8】無念や痛み絵に込め

元巡回教師・伊波則雄さん

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2017/10/04 11:14 更新:2017/10/16 10:52
 ずるりと皮膚がむけ、両手に付着する。沖縄県読谷村の伊波則雄さん(79)は、少女を抱え上げた時の感触が今も忘れられない。

 1959年6月30日、米軍機が墜落し、宮森小学校(同県うるま市)に駆け付けた。当時は近隣の石川中学校(同)に事務所を置く巡回教師。担当地域の小中学校で欠員が生じると、担任や授業を代行していた。

 宮森小には教え子たちがいる。兄が教壇に立ち、妹も通う。面影を失った母校を前に怒りに打ち震え、はやる気持ちが募った。

■ ■ ■

 「先生、この女の子をお願いします」。校門前で顔なじみの女性から、一糸まとわぬ少女を託された。やけどを負い、全身が青みがかっている。淡いピンクのワンピースの燃え残りが背中に食い込み、焼け焦げた白い靴を履いていた。

 痛い、ではない。「怖いよ…、怖いよ…」。か細い声で繰り返す。背負おうと持ち上げるが、おしりの皮膚がめくれて滑る。手を引こうにも歩く力も残っていない。米軍の救護班が抱えていくのを見届け、校内へと急いだ。

 消火作業は「焼け石に水」だった。激しく燃えるトタン屋根はバケツの水をはじき返し、熱湯となって降り掛かった。やけどを負いながらも水を掛け続ける。妹らが火の海にのみこまれているかもしれない。絶望的だとは思いながらも手を休めるわけにはいかなかった。

 児童12人(うち後遺症1人)を含む18人が犠牲となる大惨事だったが、兄も妹も無事だった。墜落の瞬間、妹はたまたま教室の入り口近くにいた。授業の準備をしていたことで難を逃れた。やけどの少女は亡くなったと聞かされた。両親に会いたかったのだろう。全身を焼かれてもなお、必死に自宅に帰ろうとしていたようだった。

 妹と少女は同級生。生死は紙一重だった。
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