神奈川新聞と戦争(55)1942年 空襲なんぞ恐るべき|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(55)1942年 空襲なんぞ恐るべき

「神経戦の手に乗らず」と題した樋口宅三郎のコラム「時感」 =1942年4月19日付本紙

 戦時下の総動員体制で地方紙が「一県一紙」へと統合を求められ、1942年2月に現在の神奈川新聞社が発足した。初代社長は、31年に横須賀日日新聞を起こした樋口宅三郎。山室清著「新聞が戦争にのみ込まれる時」によると、樋口は戦後、自身の戦争責任を「国の運命を左右し、国民の生死にかかわる抜本的な問題には目を閉じ、耳をふさいで『国策協力』の太鼓をたたいた」と省みた。

 若き日には労働運動に携わった樋口も、戦時の体制と価値観からは自由でなかった。42年4月18日の本土初空襲の翌日、樋口は社論「時感」に「神経戦の手に乗らず」と題して記した。

 「空襲なんぞ恐るべき、の国民歌が役立つ日に際会し、県民の沈着、冷静、迅速果敢な活動を目撃して、頗(すこぶ)る意を強うしたのは、ひとり筆者一人のみではあるまい」

 文中の「空襲なんぞ恐るべき」とは、41年10月に発売された戦時歌謡の題名。対米開戦前、既に空襲の歌が世に出ていた。

 樋口も、空襲への恐怖を抑える言葉を続けた。「聖戦五年大東亜戦争に進展の今日まで只(ただ)ひとたびの空襲すら受けなかつたといふは、むしろ奇蹟(きせき)とも言ひ得るのである」と被害は当然であるかのように書いた。「聖戦五年」とは37年の日中開戦からの年数。

 同じ紙面には「忽(たちま)ち九機を撃墜す 我防空部隊の大活躍に」の大きな活字が躍った。実際は米軍機のほとんどが中国の基地に帰還したが、軍の発表通りに書くしかなかった。「海軍施設に被害無し」「軍港市民は沈着」の見出しはあるが、県内に34人の死者が出たことには触れられていない。

 樋口の「時感」には、そこだけ大きな活字で強調された一節がある。「かねて覚悟のことではあるが、こゝに一段と肚(はら)が決まつた。さア何んでも来いだ。断じてひるまず、断じて恐れず、断じて惑はず」。社論というより、国民の戦意喪失を防ぐ政府のプロパガンダそのものだった。

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