港WORKER:移ろう港活写の60年|カナロコ|神奈川新聞ニュース

港WORKER:移ろう港活写の60年

船内荷役会社元社長・堀内利通さん

「移り変わっていくミナトを撮り続けたい」と話す堀内さん=横浜港・山下ふ頭

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 高度経済成長期、活気に満ちた横浜港で働き始めた堀内利通さん(79)は60年もの間、移りゆくミナトを撮り続けている。船舶と貨物に関する豊富な知識と経験を生かし、大型クレーンを備えた貨物船「雑貨船」での荷役作業を中心にレンズを向けてきた。「山下ふ頭はバナナから重機まで扱っていた。コンテナ時代を迎えて雑貨船が少なくなれば、再開発が始まるのも仕方がないね」。カメラを置く日が刻々と近づいている。

 横浜港は戦後、米軍に接収されていたが1949年から民間貿易が再開した。高島、山内、大さん橋、新港の各ふ頭の順に返還され、次第に海外貿易が盛んになった。

 56年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたように、翌年ごろには横浜港でも取扱貨物量などが戦前の記録を上回った。トランジスタラジオなどの電気製品や日本製の機械が盛んに輸出された。

 堀内さんが横浜港の船舶代理店で働き始めたのは56年。貨物船の入出港手続きなどの仕事をしながら趣味の一環でミナトの撮影を始めた。63年には、のちに社長を務めた船内荷役業者の東洋船舶作業(横浜市中区)に入社した。

 増え続ける貨物に対応するために、同年には山下ふ頭が完成。定期船を中心に利用を始めたが10ある上屋はすぐに貨物であふれ、荷さばき地には輸出される建設用機械が並んだ。70年から本牧ふ頭が順次完成するまで、多くの貨物船は沖に46あったブイに停泊し、「はしけ」を使った荷役作業が行われた。

 多く作業員を必要とした荷役作業の現場では、「ギャング」と呼ばれる作業班を組織した。貨物船の種類や積み荷によって人数が変わり、雑貨船は14人以上、特殊なパレットに乗せるバナナ船は32人ほどが必要だったという。効率化の進んだ現在はコンテナ船でさえ6~8人ほどで賄う。

 堀内さんは作業員の確保や弁当の手配、元請け会社との作業内容の調整に追われる日々。狭くて暗い船内での荷役作業は事故が起こりやすい。堀内さんは労働災害の防止を最優先に努めてきた。安全指導を行いながら、作業着のポケットに入れたコンパクトカメラ「ニコンAF600」で荷役作業の様子やミナトの風景を切り取った。

 千差万別の荷物に対応するため、より安全でより効率的な仕事を追求する作業員。堀内さんの写真は、そうした作業員たちの日々の振り返りで使われるようになり、荷役技術の伝承という意味も持つようになった。

 撮影された大量のフィルムのうち、新港ふ頭や沖合での荷役作業を写した103枚を厳選した写真集「港の記録-横浜港-」(美港社)を2015年に出版。市内で写真展も開いた。1970年代からはカラー写真も交じるが、大半はモノクロ写真だ。カメラマン森日出夫さん(70)は「ミナトで働く人たちの空気感が伝わり、作品としても素晴らしい」と称賛する。

 堀内さんが事務所を置く山下ふ頭のビルは、再開発でいずれ取り壊される。今は盛んに入港しているクルーズ客船を撮影するが、「本音を言えば移り変わっていく山下ふ頭を見届けたい。再開発が始まり、ふ頭の立ち入りが制限され、雑貨船が来なくなると、それもかなわなくなるだろうよ」。

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