神奈川新聞と戦争(49) 号外は「聖戦」のため|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(49) 号外は「聖戦」のため

「起ち上る横浜市民」と題した1945年5月30日発行の号外

 1945年5月29日の横浜大空襲から72年が過ぎた。空襲で横浜市中区住吉町にあった神奈川新聞社は全焼。南区に疎開した社員は、藤原孝夫知事の布告を載せた号外を謄写印刷機、つまりガリ版で刷った。山室清著「新聞が戦争にのみ込まれる時」によると、布告は空襲について「沖縄戦で苦境に立たされた敵の焦慮の表れ」と解説、強気の姿勢を崩さなかった。

 翌30日には「起(た)ち上る横浜市民 戦災を克服郷土再建へ」と題した号外を発行した。本社の分工場に指定された同区宮元町の井上印刷を拠点に、平版印刷機を人力で動かしたという。

 その冒頭の記事は次のような書き出しだった。

 「焦土のうへにも明い太陽は照る 二十九日朝本土に来襲した敵B29五百機の無差別ばく撃により我らの郷土横浜市は一朝にして変ぼうした、中、西、保土ケ谷、磯子、神奈川の各区に雨と降る焼い弾と敢闘した市民は三十日朝避難先からやけ落ちたわが家に復帰猛火と戦つた悔ひなき戦争の跡を顧みていまさらに腹の底からにへくり返へるてさ[き]米への憤げきと郷土再建の逞(たくま)しい決意に奮ひ起つたのである」

 8千とも1万ともされる死者が出た空襲の翌日、本紙は「悔ひなき戦争」と言い切った。そして同記事を次のように結んだ。

 「県市当局では別項の如(ごと)く戦さい者救恤(きゅうじゅつ)に応急の対策を樹(た)て市民にいさゝかの不安あらしめぬやう万全を期してゐるが戦さい者も当局のそ置を信頼し愈々(いよいよ)皇国護持のため戦ひ抜こう」

 この記事に続いて「食糧に心配はなし」「市電の復旧は短時日の見込み」といった生活情報が簡潔に述べられたが、号外発行の眼目はそれではない。

 「焦土のうへにも明い太陽は照る」で始まり「皇国護持のため戦ひ抜こう」で終わる記事。狙いは明らかだろう。不安や不満を抑え、国民を「聖戦」の継続に動員するためだ。号外が戦意高揚にくみした。 

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