【終戦の日特集】政治とは戦争しないこと 元衆院議長・河野洋平さん|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【終戦の日特集】政治とは戦争しないこと 元衆院議長・河野洋平さん

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  • 公開:2017/08/15 02:00 更新:2017/09/07 14:45
 敗戦から72回目の夏。そして、平和憲法が施行されて70年が過ぎた。時の宰相、安倍晋三氏は戦後の平和主義の象徴でもある9条の改正への意欲をあらわにする。先の戦禍を語れる世代が年々減っていく中、われわれは平穏な日常、安定した社会をどのようにつくっていけるだろうか。終戦記念日(15日)に合わせ、元自民党総裁で衆院議長も務めたハト派の重鎮、河野洋平さん(80)、フォトジャーナリストの安田菜津紀さん(30)、憲法学者で学習院大教授の青井未帆さん(44)、財政社会学者で慶応大教授の井手英策さん(45)の下を訪ねた。


時代の正体取材班=石橋学、牧野昌智、田崎基】変わらぬ紳士然とした語り口である。しかし、憂いを通り越した憤怒はひしひしと伝わってきた。戦後72年を迎えた夏、回顧録を執筆中という東京・虎ノ門の事務所に河野洋平さんを訪ねた。ハト派の保守政治家の重鎮も御年八十。その雄弁は自民党にも護憲派がいたことを思い起こさせ、この国の政治が失い、さらに失おうとしているものを教えてくれている。

 本題に入る前に聞かねばならない。安倍晋三政権のことだ。「日本を取り戻す」を掲げて首相の座に返り咲き4年半余り。衆院議長、党総裁、外相を歴任したその目にどう映るのだろう。

 -このところの支持率低下をどう見る。

 安倍政権というのは実に不思議な政権だ。国民に寄り添って政治をするのではなく、自分のやりたいことをやるという印象に私には見える。世論調査を見れば、安倍さんの政策について多くの国民は懐疑的だ。高い内閣支持率も安倍さん以外にいないからという消極的な支持にすぎなかった。政策や人柄が支持されているというのではない。そういう政権が4年も5年も続く。これは国民にとって実に不幸なことだ。国民の希望や期待とは懸け離れた政治が行われているからだ。

 だが、分水嶺(れい)は越えたと思う。かつて長期政権を率いた佐藤栄作首相を思い出す。沖縄返還や非核三原則と、いいこともやった。ノーベル平和賞までもらった。だが、政権末期、国民は何と言ったか。「Anyone But Sato」、つまり「佐藤でなければ誰でもいい」だった。いまは「Anyone But Abe」になりつつある。

 -転機はどこに。

 森友、加計問題は最後の引き金にすぎない。それ以前の乱暴な国会運営が問題だった。いわゆる共謀罪という重要な問題を十分審議することなく強行採決してしまった。特定秘密保護法も安全保障関連法もそう。国民を説得し尽くすことなく、その後も説明責任を果たしていない。

 選挙では支持を集めるためにアベノミクスや経済政策を前面に打ち出し、獲得した議席数でやりたいことをやる。それも乱暴なやり方で。それが何年も繰り返され、国民の我慢の限界を通り越してしまった。


小選挙区制で多様性失う


 安倍首相の政治的動機は「やりたいから」。辛(しん)辣(らつ)でしかし、正(せい)鵠(こく)を射た指摘であろう。最たる例は今年の憲法記念日に行った「2020年までに憲法改正をする」という宣言ではないか。

 -自衛隊を憲法9条に明記する、と。

 それも唐突に。私は賛同していないが自民党は(05年と12年に)憲法改正草案を策定している。その上で何度も選挙を戦っている。全く違うことを言い出せば誰しも驚く。憲法改正に一生懸命取り組む人たちも、積み重ねた議論は何だったのかと思うだろう。

 -安倍首相は「改憲は結党以来の悲願」と強調している。

 いまはそうだとしても、一貫して党是だったというのは間違いだ。1955年の保守合同の経緯を振り返れば分かる。憲法を是としてきた吉田茂自由党と自主憲法制定を掲げる鳩山一郎民主党が一緒になって自由民主党になったが、改憲に熱心でない党と熱心な党が一つになれば、主張は二分の一になる。一方の主張だけ残し、もう一方を消し去ることはない。改憲が結党以来の党是という認識はまったくの誤認だ。

 確かに鳩山民主党は自主憲法を制定し、独立を確かなものにしようと考えていた。だが、国連加盟や経済大国化を経て、わが国の独立を疑う人はいない。国民に独立の意識を持たせるための憲法改正はもはや必要ない。私の党総裁時代(93~95年)も政綱から自主憲法制定を外している。憲法は国民に定着していて不都合もない。改正を求める声も聞こえてこない。いつまでも政綱に掲げておく必要はないと考えたからだ。

 -それがいまや、自民党に護憲派がいたというのが信じられない状況だ。

 立党20年の1975年に向け、政綱見直しのたたき台づくりを任されたのが3年生議員の私だった。思い切って自主憲法制定を外し、非核三原則を入れる案をつくった。

 ところがさんざんたたかれて。自民党の議員とは思えないと非難され、この党に居場所はないなと感じた。改憲の議論だけではない。非核三原則を掲げて何がいけないというのか。核武装を考えている議員が大勢いるのではないかと不安がよぎったものだ。(76年に明らかになった大規模汚職事件の)ロッキード事件後に自民党を飛び出し新自由クラブを結成したが、実はこの時のことがきっかけになっていた。

 -しかし後に復党し、総裁までやった。

 私の政治家としての師匠格は宇都宮徳馬さん。東京選出だったが当時の私の選挙区、神奈川県3区の大和市に自宅があり、頻繁に訪ねては指導を受けた。

 宇都宮さんがアジア外交を推し進めようと党内に立ち上げたのがアジアアフリカ問題研究会(AA研)。ここがハト派、リベラル派のよりどころだった。党内の議論でも後ろ盾になってくれた。神奈川で言えば(元外相の)藤山愛一郎さんもそう。日中問題に取り組んだハト派の長老だ。トップが右を向いていると声を上げにくい面はあるが、骨太のハト派のリーダーがすっかりいなくなった。

 -結果、多様な議論がなされなくなった。

 懐の深さ、広さが全くなくなってしまった。原因には衆院の小選挙区制が挙げられる。野党時代の自民党総裁として細川護熙首相との会談で導入が決まり、私自身、責任を感じている。二大政党が誕生し、政権交代ができるという触れ込みだったが、結果は1強多弱。小選挙区制では公認候補は1人しか出せない。党執行部に異を唱えれば公認を外される。公認ほしさにごまをする。党内の活発な議論がなくなった。


沖縄の基地は撤退、縮小を


 インタビューは7月下旬に行われた。のち、息子の太郎氏が外相となる。元外相として力説する外交の大切さは「父親とは違う」と語る太郎氏にこそ聞かせたい言葉であるようだった。

 -ハト派、護憲派としての原点は。

 戦時中は小学生だったが、戦争体験は刻まれている。B29が頭上を飛び、機銃掃射も受けた。疎開先の小田原は8月15日の終戦前夜、焼(しょう)夷(い)弾で焼き尽くされた。戦死した親戚もいる。

 議員になって半年後、最初の外遊でグアム、サイパンを訪れたのも大きかった。目的は激戦地での遺骨の収集状況調査。頭蓋骨が広がる惨憺(さんたん)たる光景だった。機関銃を持ったまま白骨化しているものも見た。聞けば、餓死だと。穴に立てこもり米兵を待ち受けながら、灼熱(しゃくねつ)の中で飢え死にしていた。こんな悲惨で愚かなことは絶対に駄目だと骨の髄まで染みて帰ってきた。政治とは戦争をしないことだ、と。

 -戦争は政治の失敗、外交の失敗だ、と。

 戦争で問題は解決しない。鉄砲を撃つのではなく、外交や政府開発援助(ODA)などを充実させるといった経済的な手段で解決するしかない。

 日米関係はもちろん大事だ。だが、...

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