やまゆり園元職員が手記で思い語る(下) ここも「地域」共に育つ

 障害者施設「津久井やまゆり園」には、相模原市緑区千木良の地域と共に育ってきた歴史がある。地域は行事などを通じて施設の利用者と関係を築き、施設側も雇用や取引を通して地域を支えた。事件が発生してから「隔離された施設」との論調もあるが、元職員の太田顕さん(74)は「千木良にも密接な人間関係があった」と語る。

 「あしたも来る?」。退勤するとき、必ず尋ねてくる女性入所者がいた。

 返事をしても不安げな様子は変わらない。翌朝出勤して「おはよう」と声を掛けてやっと、安心した表情を見せてくれる。その繰り返しだった。親しい関係をつくった人が突然いなくなる悲しみを、彼女だけでなく、入所者は恐れていたのだろうと思う。

 いま、不安は現実となった。見知った顔は殺傷事件によって失われ、建て替えのため、住み慣れた土地も離れざるを得なくなった。

歴史


 最初から地域で理解があったわけではない。1970年代。ある日、10人ほどで地域を散歩していたところ、木陰に小学生くらいの子どもが隠れていた。入所者を連れて通り過ぎた後、警戒した様子で露骨に声を上げながら逆方向に走って行ってしまった-そんなエピソードもあるほどだ。

 「だから私たちはなるべく正直なところを見てほしいと思った。行事のたび地域の人に参加を呼び掛けて一緒に過ごすことで施設のことを知ってもらうなどした。そういうふれあいの場を積極的に持って、地域の方との交流の機会を設けていた」

 園内で開かれた作品展示会の際は、見学に来た子どもたちの様子から手応えを感じることもできた。

 〈この僅(わず)かな数時間にも、具体的な園生との出会い、接触・交流の中での見学者の言動・気持ち(不安感等)等が確実に変化している事が明らかでした。(中略)運動会・盆踊りの諸行事で、園生の動きを見聞きしているはずの見学者が、遠くからでなく身近に、そしてなんらかの対話・交流・関係を具体的に持ったのが今日初めてではないでしょうか〉(77年)

 遠足など施設外での活動も積極的に行った。当時まだ町で障害者を見掛けることが少ない時代。手記では、外に出掛ける重要性を認識した旨を記している。

 〈社会環境の問題を「健常者」に、頭ではなく身体・肉体で理解させる為(ため)には、排除されている「障害児者」と私達福祉職員がどんどん園外に出て、具体的場面をつきつける事が必要ではないでしょうか〉(74年)

 何よりも、障害者について知識と理解がないことで生まれた偏見だから、知ってもらう事が必要。その一心だった。

 〈「精神薄弱者とは…」「障害者とは…」等の事を知るより「Kちゃんは、眼が…」「Aちゃんは、足が…」「Bちゃんは、話さない…」と、固有名詞をもった人として言わば、その人の『個性』として(中略)知って欲しいと願う。そして、私達の生きている社会には様々な人々がいて、共に育ち学び生きていくことが、全く自然で、ごくごく当たり前の当然の事である事を知り、その中から確かな心を育てていって欲しいと願う〉(80年)

接点


 地域との経済的な接点もかつては持ち続けていた。

 地域の人を職員として雇用すること、地元の業者から食材や日用品を調達すること。それは64年の開所からいつしか暗黙のルールとなり、指定管理者制度が始まる2005年ごろまでずっと守られてきた。

 施設は地域の経済を活性化させる大きな役割を果たし、地域や業者は仕事を通して施設との距離を縮めていた。「何より良かったのが、地元職員が家庭に帰った後、家族に仕事のことを話すんでしょうね。こういうことあったよって。それがすごく子どもたちや連れ合いや家族の方にいい影響を及ぼしていた」

 〈「無断外出」で千木良街道を一人で歩いている園生さんが、地域の方からの通報で大事に至らず、無事に保護され帰園した事故は十指にあまる数となっています。(中略)交流と親睦を深めてきた園と地域の関係(中略)が、創設当初の「避けていた地域」から「通報の地域」。一旦緩急あれば「組織的にも協力して下さる地域」へと変貌する力となって来ました〉(91年)

 それを実感したのが、無断で男性入所者が外出、行方不明になっていたとき。職員だけでなく、地元の消防団や業者の方々が参加して夜通し一緒に捜してくれた。男性は翌朝無事に保護された。「あらためて、地理を知っている地元の人の助けがあったから大事に至らずに済んだと思う。施設は地元によって支えられている社会福祉だなということをあらためて認識する出来事になった」

 指定管理者制度に切り替わるとき、経費節減のため地域での雇用や業者利用が終了した。

 個人的に、それは...

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