神奈川新聞と戦争(47)1945年 本紙の「愚かな過ち」|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(47)1945年 本紙の「愚かな過ち」

 「国辱的記念物」「親米思想の遺物」だとして横須賀・久里浜海岸のペリー上陸記念碑を引き倒した人々は、敗戦を境に「戦犯になるのでは」と慌てた。

 1945年2月8日の撤去と、戦後11月の再建をともに手がけたのは、横須賀の馬淵組(現・馬淵建設)だった。社史「80年の道のり」(89年)にある。「[米海軍の]ハルゼーやニミッツといった高官は、海軍航海学校に上陸してきた。その足で、彼らはペリー上陸記念碑の場所にやってきたという。青い顔をしたのは、碑の撤去作業に当たった馬淵組関係者だった(略)案の定、浦賀警察署から呼び出しがあって、関係者は震え上がった」

 なぜ「その足で」かは分からない。呼び出しの用件は責任追及ではなく、再建の要望だった。

 馬淵組は「社員や協力会社を総動員して」再建作業に着手。「アメリカも相当な関心を持っており、倒れたままの碑の横にアメリカ人が数人立っていた」。そのうち一人が見物人の少年に「これ倒すときどうやって倒しましたか、どういう人が来てやりましたか」と尋ねた。「側で聞いていた関係者は、いつ『あのおじさんだよ』と言われやしないかと、冷や汗が流れたという」。47年7月には碑の前で「ペリー上陸95周年記念式典」が開かれた。

 戦前、戦中、戦後で人々が態度をころころ変えたさまは滑稽に映る。本社の論説副主幹などを務めた山室清は著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」で「あの『八月十五日』を挟んで日本国民全体が演じたことの縮図といえる」と評した。

 だが、本紙をはじめメディアの責任は「滑稽」では済まされない。高橋恭一著「浦賀奉行」は一連の記念碑問題について「関係者や僅かの報道関係の人たちのみが知っており、一般市民はこれを知るどころではなく」と指摘。メディア主導だったことがうかがえる。

 ペリーをやり玉に挙げ、反米感情を扇動した背景には「部数拡張競争、社の生き残り競争」(山室)があった。新聞社は戦争を利用し、便乗したのだ。

 碑の撤去論が持ち上がった日米開戦当時、既に言論は厳しい統制下に置かれていた。だが、山室は「被害者」にとどまらないメディアの責任を問うた。

 「国家の強権によって無理矢理戦争協力紙へと追い込まれていったというだけでなく、新聞も進んで戦意高揚や戦争賛美への世論づくりにお先棒をかついでいった」。山室の言葉を借りれば、碑を巡る本紙報道は「先輩の新聞人たちの愚かしくも苦い過ち」だった。

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