神奈川新聞と戦争(46)1945年 敗戦を境に価値一変|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(46)1945年 敗戦を境に価値一変

「一世紀の軌跡-横貿・神奈川新聞の紙面から」(1986年、本社刊)に掲載された横倒しのペリー碑の写真。1945年秋に米海軍が撮影した

 ペリー上陸記念碑の撤去騒動は、碑が引き倒されたことで幕となったわけではない。碑は現存する。敗戦を機に再建されたのだ。

 反米感情を力に地元横須賀市の翼賛壮年団(翼壮)が碑を撤去したのが1945年2月8日、横倒しのまま放置されていた石碑が復元されたのが同年11月上旬。敗戦を挟んだ9カ月の間に、碑の価値は変転した。

 本紙論説副主幹などを務めた山室清の著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」に後日談が記されている。復元を主導したのは、後に大蔵事務次官を経て衆参議員を務めた佐藤一郎。当時の県庶務課長だった。「金など心配するな。何とかなるから工事を急げ」と地元関係者をせき立てたという。

 山室は同書で、碑の撤去を決断した藤原孝夫知事を引き合いに「佐藤にすれば、知事藤原にかかわる問題なので捨て置けなかったのだろう」と推察した。

 碑の復元工事は、引き倒しも手がけた横須賀発祥の馬淵組(現・馬淵建設、横浜市南区)が請け負った。同社の社史「80年の道のり」(89年)にも、往時の逸話が詳述されている。

 特に、翼壮が日米開戦3周年(44年12月8日)に合わせた碑の撤去をもくろんだくだりが生々しい。

 「この年の12月8日を期して碑を倒し、クラッシャー(砕石機)にかけて粉々に砕いて靖国神社の参道にまき、神社の参拝者で踏みつけにしようという計画をぶち上げた」。粉々にした“死骸”を踏みつける-とはグロテスクである。

 実際の撤去作業は前述の通り、翌45年2月8日に行われた。「記念碑に大綱をかけ、集まった壮年団員たちが引っ張ると、11・4トンもある碑はあっけなく前に倒れた」

 だがクラッシャーで粉砕されることはなかった。ほどなく、横須賀に空襲があったからだ。「『ペリーの碑をぶっ倒したことをアメリカはすぐ知ったのに違いない』と、人々はうわさしあった(略)碑は倒されたまま現場に置き忘れられた格好になった」

 敗戦を境に、人々は「戦争犯罪に問われるのでは」と恐れ始めたという。

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