時代の正体〈499〉道徳教科化(下)主権者教育の場に|カナロコ|神奈川新聞ニュース

時代の正体〈499〉道徳教科化(下)主権者教育の場に

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  • 公開:2017/07/17 12:34 更新:2017/07/17 12:34
まつした・りょうへい
1959年生まれ。専門は教育思想、道徳教育論。著書に「道徳教育はホントに道徳的か? 「生きづらさ」の背景を探る」(日本図書センター)など。

まつした・りょうへい 1959年生まれ。専門は教育思想、道徳教育論。著書に「道徳教育はホントに道徳的か? 「生きづらさ」の背景を探る」(日本図書センター)など。

時代の正体取材班=成田 洋樹】道徳教科化は、教科書が推奨する規範の押し付けしか生まないのか。教科書の問題点を指摘した上で、新しい教育の可能性を見いだす研究者がいる。道徳教育に詳しい松下良平・武庫川女子大学教授に聞いた。

 文部科学省は「考え、議論する道徳」という新しい道徳教育の理念を掲げている。だが、実際に出来上がった教科書はその理念とはほど遠く、従来の副読本と代わり映えしない内容になっている。ルールやよき振る舞いなどを教え込もうということだ。準備期間が短く、急造を強いられた事情もあるが、さまざまな関係者への「忖度(そんたく)」が働いた可能性もある。次期教科書改訂では真価が問われる。

建前を取り繕う


 これまでの道徳の授業は、「自分勝手やわがままはやめよう」「他者や全体のために行動しよう」ということを、手を変え品を変えて教えるという側面が強かった。教師の望む「正解」を子どもたちが先回りして答えることで、教師を喜ばすことが目的のような授業が少なくなかった。答え当てゲームのようなものだ。

 利己主義を否定して「他者や全体のために尽くせ」という自己犠牲の推奨は、戦前の天皇制国家に命をささげることを求めた教育勅語の精神にも通じる危うさがある。自分を常に犠牲にして他者や全体のために尽くすことができる人というのは、果たして素晴らしい人なのか。子どもたちが「そんな人どこにいるの?」と思ってもおかしくない。だから道徳の授業が「うさんくさい」と受け止められ、子どもたちも授業では建前を言うだけになるのだ。

 教科書会社全8社が採用した「手品師」という教材は、こうした道徳教育の象徴と言える。大舞台に立つという自己実現のチャンスなのに、自分を犠牲にして自己主張せずに他者に尽くしていく。教科書では手品師の行動が「誠実」とたたえられ、自己否定的な選択が肯定されている。

 問題なのは、自己実現か自己犠牲かの二者択一しかないように子どもたちに迫ることだ。視野が狭くなり、考え方が単純化してしまう恐れがある。手品師の例で言えば、大舞台での公演の話を手品師に持ち掛けた友人はよそよそしい印象を受ける。「大舞台か子どもとの約束か」のどちらを選ぶかで思い悩む手品師にもっと親身になっていれば、いろいろなやり方で手助けできたはずだ。一方の手品師も自分一人で物事を解決しようとしていて、2人の関係はどこか閉じてしまっている。自己主張せずに自分一人で問題を抱えるような人間像は、国家権力にとっても都合がいい。異議申し立てをしないからだ。

 ある社の設問は「手品師のすばらしいところはどこでしょう」となっている。この問いの立て方では、手品師の行動に疑問を持っても子どもたちは意見を言いにくい。疑問を持つ子は「手品師の行動の素晴らしさがなぜ分からないのか」と言われ、「空気を読めない子」と見られかねない。道徳教育をしながら誰かを排除し、いじめに加担してしまうことだってありうる。

 いじめ自殺事件が起きた大津市の中学校は、直前に道徳教育の研究指定校だった。研究校では指定期間が終わると、「子どもが荒れる」とよく言われる。授業では、もっともらしい答えをひねりだすことが繰り返される。考えが深まることはない。本音を隠して建前を取り繕わざるを得ず、授業以外でもあいさつや礼儀の徹底が求められる。授業を公開することも多く、緊張を強いられる。指定期間中に自己を抑制して「良い子」を演じてきた子たちが、その反動でたまったストレスをはきだし、それがいじめにつながった可能性がある。

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