神奈川新聞と戦争(44)1944年 なお撤去にためらい|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(44)1944年 なお撤去にためらい

記念碑撤去の「一時延期」を報じた1944年12月7日付神奈川新聞

 戦況が悪化した1944年末に至ってもなお、横須賀・久里浜海岸のペリー上陸記念碑を撤去することへのためらいが、当時の紙面から読み取れる。

 同年12月7日、真珠湾攻撃3周年を翌日に控えた本紙は「ペルリ上陸記念碑 撃砕計画一時延期」の見出しで、碑の撤去が先送りされることを報じた。

 「敵米国が東洋侵略の野望を秘めて鎖国日本に開港を迫るため来航した水師提督ペルリが、わが皇土に上陸第一歩を印した横須賀市久里浜に建つペルリ上陸記念碑は大東亜戦争以来国辱的存在なりとしてその存廃が問題となつてゐた」との書き出しは、翌年2月に撤去される際と同様の書きぶりだった。本紙自身も碑を「国辱的存在」と位置づけ、撤去を推進する立場だったとしていいだろう。

 記事は続けて「横須賀市翼賛壮年団が来る八日の戦争勃発三周年を卜(ぼく)して一挙粉砕し、国恥史蹟を砂中に覆滅する画期的計画を樹(た)て関係方面と打合せ中だつたが、遂(つい)に諒解(りょうかい)成立に至らず止(や)むなく一時延期することに決定」と説明した。

 高橋恭一著「浦賀奉行」(76年、学芸書林)によると当初、翼賛壮年団(翼壮)は海軍の横須賀鎮守府に了解を求めたが、鎮守府長官は「記念碑には罪はない」「大国民としてあまりにも大人気ない」と請け合わなかった。それで知事を訪ねたという。碑の管理は35年、建立した米友協会から県庁内の「伯理(ペルリ)記念碑保存会」に移管され、会長は知事が担っていた。

 翼壮が思い描いたのは、日米開戦3周年という記念日に、米国の「東洋侵略」の記念碑を打ち倒す-という象徴的な演出だった。時代が変われば、同じ碑が親善の象徴にも、国威発揚の対象にもなったのだ。

 既に述べた通り、このときためらった知事の藤原孝夫も、2カ月後には撤去を決断することになる。

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