神奈川新聞と戦争(40)1945年 国、県が撤去に合意|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(40)1945年 国、県が撤去に合意

「ペルリ記念日に天誅下る」の見出しを掲げた1945年2月4日の神奈川新聞

 「ペルリ記念日に天誅(てんちゅう)下る 国辱的な存在 けふ軍港翼壮が打倒」。1945年2月4日の本紙の見出しにそうある。翼壮とは大政翼賛会の傘下にあった大日本翼賛壮年団のこと。

 「帝都の関門を扼(やく)する三浦半島の一角横須賀市久里浜海岸にB29帝都侵襲の道しるべの如(ごと)く聳(そび)へ立つ巨大な碑一基」「わが鎖国の夢を破つて開港を迫つた米国東洋艦隊司令長官ペルリが、その泥靴を神州に踏みつけた記念碑」。ペリー上陸記念碑をそう表現した記事は「今や驕敵(きょうてき)米マニラに迫つてわが山下軍に最後の決戦を挑むの秋(とき)(略)二月八日の大詔奉戴日を期し藤原知事自ら撤去を行ひ国辱的記念物を永遠に砂中に葬り去る」と告げた。

 山下は、フィリピン防衛を担った第14方面軍の司令官、山下奉文陸軍大将。藤原は当時の官選知事、藤原孝夫。大詔奉戴日は45年12月8日の真珠湾攻撃にちなみ、毎月8日を記念日として国旗掲揚や宮城遥拝などを行ったことを指す。

 記事の通り、撤去は最終的に知事が決断した。その声明も同じ紙面に載った。

 「大国の襟度を示せとの説もあつたが、当時の歴史を調べて見た結果親米色の濃厚なものによつて建てられたこの記念碑を現下の情勢に照して排除すべきであるとの結論に達し、先輩徳富先生もこれに対し絶大な賛意を表し宮内省の諒解(りょうかい)も得たので、八日横須賀市翼賛壮年団員の協力を得て撤去する事に決定した」。徳富先生とは評論家の徳富蘇峰のことだろうか。

 知事は撤去の根拠に親米思想を挙げた。それ自体はこの3年余り前、本紙の前身の神奈川県新聞が展開した撤去運動の根拠と同じだ。だが重みは異なる。知事は県トップの立場にとどまらず、記念碑の「保存会長」も兼ねていたからだ。

 碑の建立に明治天皇の「御下賜金」が充当されていた問題も解決した。声明に「宮内省の諒解も得た」とあるように、知事は「宮内省として意見なし、保存会長としての知事に一任する」との言質を取った。ついに国、県も同意した。

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