神奈川新聞と戦争(39)1941年 統合で薄れた撤去論|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(39)1941年 統合で薄れた撤去論

「飛んだぞペリーの素首 記念碑撤去の先触れか」の見出しを掲げた1941年12月29日付の神奈川県新聞

 横須賀・久里浜にあった写真館の屋根に飾られたペリーの石像の首が、何者かに破壊された。日米開戦直後の1941年12月29日、本紙の前身の神奈川県新聞は「飛んだぞペリーの素首」と物々しく、というより痛快そうに伝えた。同紙が展開したペリー上陸記念碑の撤去キャンペーンを後押しする「事件」だった。

 記事はその事実関係を簡単に伝えた後、キャンペーンの主唱者である県新聞横須賀支局長、宮野庄之助のコメントを、識者に尋ねるかのように紹介した。

 「何人がペリー石像の素首を打落したのはやゝ矯激[激しい]の観を免れないが民族の怒り乃至(ないし)大衆の激情を不審に抑圧するとこんな現象が往々にして起ることを免れない。いづれは実現さるべきペリー記念碑撤去の先触れでとも云(い)へると思ふ」。記念碑撤去の先触れ-の文句は、この記事の見出しにも取られた。

 本社元論説副主幹の山室清は、著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」で、撤去をあおった県新聞の形勢が必ずしも良くなかったことを解説した。「県新聞のキャンペーンに呼応するようにハッスルしたのが横須賀市翼賛壮年団である。同市翼壮団長佐野伴治らは、ペリー碑保存会長を代々務める県知事に度々ひざ詰めで決断を迫ったが、話ははかばかしく進まなかった」

 「飛んだぞ」の記事の2週間ほど前、海軍中佐の近藤新一が反対を表明していた。碑の建設に明治天皇の「御下賜金」が充てられていたことも、行政や市民をためらわせたという。

 この記事が出た約1カ月後に県新聞は神奈川日日新聞などと統合、今の神奈川新聞となった。神奈川日日こそ、近藤中佐の反対意見を載せて対抗した県新聞のライバル紙。山室は以降の紙面について、同書で「宮野の名は消え、記事のキャンペーン調も薄れている」と分析、統合で「宮野はその立場を失ったのではなかろうか」と推測した。

 だが碑は倒された。それも撤去論が沸騰してから3年余り後、目に見えて戦局が悪化した45年2月に。

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