神奈川新聞と戦争(38)1941年 開戦直後の実力行使|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(38)1941年 開戦直後の実力行使

「近藤中佐存置要望」の記事=1941年12月15日付神奈川県新聞

 本紙の前身、神奈川県新聞の1941年12月15日付「横須賀方面」欄に「ペリー上陸記念碑撤去問題 近藤中佐存置要望 提唱者・宮野氏の反駁(はんばく)」と題した記事が載った。日米開戦から1週間、同じページには「スパイを撃滅し思想戦に全勝せよ」「銃後の赤誠」といった見出しが並ぶ。

 記事は横須賀・久里浜海岸のペリー上陸記念碑の撤去運動に、海軍中佐の近藤新一が反対したことを受けて書かれた。碑を撤去するのは感情的で「大国民の襟度にあらず」との近藤の意見はその2日前、ライバル紙の神奈川日日新聞(翌年に県新聞などと統合、本紙に)に掲載されていた。

 「記念碑撤去の最初の提唱者である本社横須賀支局長宮野庄之助氏」との肩書で紹介された宮野は、記事で「近藤中佐の抗議も有力な論拠の上に立つてゐるとは思はない」と一蹴。大隈重信や評論家の徳富蘇峰、思想家の大川周明の見解を挙げ「ペリーは日本侵略の意図を以て来寇(らいこう)した」と断じ、撤去の論拠とした。

 「中佐も云(い)はるゝ通り(略)ペルリ記念碑が撤去されても久里浜が記念さるべき史蹟であることに変化はない(略)徳川幕府が演じた屈辱のシンボルたるに過ぎない『ペリー上陸記念碑』を撤去せんとするものである」と宮野は持論を展開。「大国民の態度にあらず」とした近藤の筆致をやり玉に挙げ「そもそも教養ある紳士にあるまじき軽率の態度」と非難した。

 後段は、宮野がこれまで述べたことの繰り返し。ペリーは武力で開国を迫り、不平等条約によって日本は「半植民地」となり、記念碑は「米国は日本開国の恩人」との認識を浸透させるための「思想謀略」-。

 2週間後、同月29日の県新聞に物騒な見出しが躍った。「昭和の蒲生君平現る 飛んだぞペリーの素首 記念碑撤去の先触れか」。記事は次のように伝えた。

 「横須賀市久里浜湾頭のペリー上陸記念碑撤去が問題となつてゐる折柄同所嘉永館の屋上にあつた、当時の浦賀奉行戸田伊豆守と握手してゐるペリー石像の首がいつの間にか叩(たた)き壊されて無くなつてゐることがこの程発見され話題となつてゐる」

 嘉永館は久里浜にあった写真館。見出しにある蒲生君平は江戸時代後期の勤王家、儒学者で、天皇陵を調査し前方後円墳の命名者として知られる。何者かによる実力行使は、勤王家の功績に重ねられた。

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