神奈川新聞と戦争(37)1941年 統合見据えた争奪戦|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(37)1941年 統合見据えた争奪戦

ペリー上陸記念碑の撤去論を分析した「新聞が戦争にのみ込まれる時」と当時の神奈川県新聞

 1941年3月に突如として神奈川県新聞(本紙の前身)が展開した横須賀・久里浜海岸のペリー上陸記念碑の撤去キャンペーン。本紙元論説副主幹の山室清は、著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」で、それが地方紙の覇権争いを意味していたと指摘した。

 争いの相手は、これも本紙前身の神奈川日日新聞。約9カ月後、県新聞の撤去論に反対の声を上げた。山室は次のように読み解く。「県新聞が火をつけたペリー碑撤去騒ぎは、単なる反米感情とは別に、戦争遂行のための国策機関紙化を意図する政府の一県一紙新聞統制策に主導権を握ろうとした県新聞と神奈川日日の覇権争いをその蔭に隠していたと見られるのである」

 大正末に10紙余りあった県内の地方紙は国家総動員体制下、統合が進んだ。県新聞は横浜貿易新報(横貿)を前身とする横浜の新聞だったのに対し、神奈川日日の本拠地は横須賀。40年7月、横須賀日日新聞の名を改め「神奈川」を名乗り、全県を視野に入れた。横貿が県新聞に改題するより5カ月早かった。

 「新聞の国策機関化への工作が中央と地方でじわじわ進められていたから、神奈川の県紙として一歩遅れを取った形の県新聞が神奈川日日の進出ぶりに警戒心と神経をとがらせていたのは十分察せられる」と同書に記した山室。撤去論の核心を次のように分析した。「横須賀市にでんと鎮座するペリー日本上陸の大記念碑を格好のやり玉として、“錦の御旗”を背に神奈川日日の本拠へ攻勢をかけた県新聞のキャンペーン意図が鮮明に読み取れる」

 撤去論の急先鋒(せんぽう)だった県新聞横須賀支局長の宮野庄之助は、同書によると「往時の新聞記者風俗の名残ともいえる羽織はかま姿に肩で風を切るふうの元気のいい人だったらしい」。確かにその論調は威勢が良かった。「同碑撤去の時期は緊迫した国際情勢から見て現在が最適」「米国の我国に対する非友好的な傍若無人の振舞は洵(まこと)に目に余るものがある」「[市長には]速かに善処の方法を講じて頂きたい」(41年3月18日)
 けれども、同書の山室の解釈を踏まえれば、撤去論は「血の気の多い一現地支局長の勇み足だけとはいえず、県新聞の経営首脳をひっくるめた一県一紙争奪の戦略を秘めていたとみることもできる」(同書)。

 両紙は翌42年2月、相模合同新聞も含め現在の神奈川新聞社に統合された。

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