神奈川新聞と戦争(36)1941年 覇権巡る「代理戦争」|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(36)1941年 覇権巡る「代理戦争」

記念碑撤去を巡る岡本横須賀市長のコメントを載せた1941年3月18日付の神奈川県新聞

 横須賀・久里浜海岸のペリー上陸記念碑の撤去を提唱した宮野庄之助は当初、神奈川県新聞社(本社の前身)の横須賀支局長であることを伏せていた。肩書を初めて明かしたのは1941(昭和16)年3月18日、紙面で「撤去せよ」と訴えてから5日も後。記事にさらりと「宮野庄之助氏(本社横須賀支局長)」と記しただけだった。

 「趣旨は能(よ)く諒解(りょうかい) 岡本横須賀市長語る」と題したその記事は、宮野が市長の岡本伝之助に撤去の是非をただす内容だった。「ペリー上陸記念碑撤去問題を提げて起(た)つた宮野庄之助氏(本社横須賀支局長)は十七日朝岡本市長の登庁を待つて市長室を訪づれ地元市長としての意見を叩(たた)いた」

 市長は「御趣旨は能く諒解して居ります。ペリーが決して平和の使者として日本に来たのでないことは、彼が武装を施した戦艦を率ゐて浦賀湾頭に現はれ(略)明らかである」と理解を示したものの、撤去には「今日直ちに同碑の撤去運動を起すと云(い)ふことは現在の日米関係が極めて微妙な動きを見せてゐるので(略)時期の点がどうかと思ふ」「軍港都市である土地柄海軍側の意向等も打診してからでないと責任を以つて、はつきり申上げ難い」と、慎重だった。

 これに対して宮野は「日米開戦に関する論評が盛んに新聞、雑誌を賑(にぎ)はし、単行本も続々出版」されている現状を挙げ、もはや米国に気を使う必要はないとまで言い切った。後の戦禍を思うとあまりに無責任な言論人の言葉だった。

 実は、撤去論の陳情と報道という「自作自演」は、単なる反米感情だけでなく、新聞社が置かれた状況をも反映していた。

 山室清(元本社論説副主幹)著「新聞が戦争にのみ込まれる時」に、その背景が解説されている。挙げられたのは、一連の撤去論から約9カ月後、日米開戦直後の近藤新一海軍中佐による意見表明。記念碑の存置を岡本市長らに申し入れたとの内容だった。

 この「申し入れ」を掲載したのは、12月13日付の神奈川日日新聞だった。

 国家総動員体制下、地方紙の統制が進んでいた。前年、40年のうちに横須賀日日新聞と軍港よろづ新報は神奈川日日新聞に、東海新報、小田原新聞、神静毎日新聞の3紙は相模合同新聞に統合。横浜貿易新報は神奈川県新聞と名を変え、全県を視野に入れていた。

 山室は指摘する。「ここで見逃せないのは、昭和十五年(一九四〇)に相次いで、それぞれに『神奈川』の県名を冠して紙名を改めた両新聞が、ペリー碑の存廃を巡って対立する姿勢を示していることである」。存廃論は、最終的な「一県一紙」を見据えた覇権争いだった、というのだ。

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