「城ラマ」マイスターが行く<3>小田原城|カナロコ|神奈川新聞ニュース

「城ラマ」マイスターが行く<3>小田原城

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2017/04/17 19:27 更新:2017/04/19 14:04
【2016年10月9日紙面掲載】
 城というのは地域の象徴でもある。小田原の人は地元のことが大好きな人が多いと感じるのだが、白亜の天守がそびえる小田原城があることも「小田原愛」が育っていく一つの要因に違いない、と思う。

 小田原城は後北条氏の祖、伊勢盛時(北条早雲)が1495(明応4)年に大森藤頼から奪い、盛時の子、氏綱の時代に後北条氏の本拠地となった。以降、後北条氏が滅ぶまで約100年間、領国の中心であり、3代氏康、4代氏政の時に、関東一円にその勢力を大きく広げていった。

 小田原城は、あまたの名将が攻め寄せたということで稀有(けう)な存在である。1561(永禄4)年には上杉謙信が、また1568(永禄11)年には武田信玄が大軍をもって北条領内に侵入し城を囲んだが、いずれも落城させることができなかった。

 その後、天下人とし台頭してきた豊臣秀吉に対して、北条氏政・氏直親子は従属するか、対抗するかの選択に迫られ、この時期に小田原城は拡張され、巨大城郭となった。後北条氏と真田氏との間で起きた「名胡桃(なぐるみ)城(じょう)事件」をきっかけに秀吉と後北条氏は交戦状態となり、1590(天正18)年に秀吉は20万人以上の大軍で、後北条領内に押し寄せた。

 それに対し、後北条氏は惣構(そうがま)えとよばれる9キロメートルにもおよぶ堀や土塁を完成させ、小田原城に籠(こ)もって秀吉の軍勢を迎えたのである。後北条領内の支城は次々と落城し、小田原城も完全に包囲されたが、秀吉の軍勢も巨大な小田原城を攻めきれずにいた。

 だが、後北条氏と同盟関係にあった伊達政宗が秀吉に降り、後北条内でも内通者が出るなど不利な情勢を悟った5代氏直は、籠城3カ月後の7月5日に降伏。5代100年にわたり、関東に一大版図を築いた後北条氏は滅亡した。その後小田原城は関東に入府した徳川氏の領地となり、家康はここに譜代家臣の大久保氏を配し、領国の西の要として最重要視した。現在の本丸を中心とした小田原城の遺構はこの時整備されたものである。

 いまや小田原の象徴でもある小田原城復興天守は1960(昭和35)年に建てられたもので、今年リニューアルされ、きれいになった。また、銅門や馬出門も小田原市による本丸、二の丸を中心とした整備計画によって復元されている。

 小田原城の魅力はこれだけではない。後北条氏が秀吉軍の来襲に備え作った、見るものを圧倒する巨大な土塁と堀を配した惣構えの遺構も多く残っているので、ぜひそちらの見学もしてもらいたい。「小田原」という土地の持つ懐の深さを感じ、あなたの心にもきっと、「小田原愛」が芽生えるであろう。

 にのみや・ひろし 1968年生まれ。横浜市港北区のOA機器部品メーカー社長。城郭全体を地図や資料を使いこなして再現し「城ラマ」を製作している。「城郭復元マイスター」を自ら名乗る。

◎小田原城天守閣 小田原市城内6-1 小田原駅から徒歩10分
◎小峰大堀切 小田原市城山3-30 小田原駅から車で10分

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