神奈川新聞と戦争(34)1941年 侵略の大義に重ねる|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(34)1941年 侵略の大義に重ねる

ペリー上陸記念碑撤去問題で読者に反論を大展開した1941年3月16日付の神奈川県新聞。見出し下に宮野の署名がある

 あす2月1日は本紙の前身、横浜貿易新聞が1890(明治23)年に創刊された記念日であり、現在の神奈川新聞社の創立から75周年となる節目でもある。

 前者は、商業人の自主自立を目指した自発的な創業であり、後者は大戦下の1942年、新聞業界が国家総動員体制に組み込まれる中で強いられた競合社同士(神奈川県新聞、神奈川日日新聞)の合併だった。

 でありながら、強制の中にも「自発」があった。その発露こそ、ペリー上陸記念碑の撤去運動だったという。本社元論説副主幹、山室清は著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」で、撤去運動が合併後を見据えた両社の「覇権争い」を含んでいたと指摘している。引き続き、その過程を追う。

 41年3月13日以降、横須賀市に住む宮野庄之助は本紙の前身・神奈川県新聞紙面で、記念碑が「帝都の関門にして最も重大なる国防基地」の横須賀にあることを「国辱」とし、撤去を訴えた。翌14日には読者の反論が載った。米国は日本に経済制裁を加えるなど両国関係は悪化しているが、それで撤去しては度量が小さい-。そんな趣旨だ。

 これに対し、宮野は16日付の1面の半分を割き「読者氏の反対論を駁(ばく)す」と題して、再反論を展開した。

 「アメリカを先進強大国視し、自ら日本を後進弱小国視する崇外的な身屈身の発露では無かつたであらうか(略)あのやうな碑を建てたことが小国民的であり、その過誤を自覚してこれが修正要請することが、『一等国日本』にふさはしき大国民的態度でなければならぬ」。現代の自虐史観批判にも通ずるような、挑発的な筆致が読み取れる。

 ここで宮野は自身の歴史観を披露する。「極めて初歩的な世界近代史の知識をもつ何人も知る通り、ペルリは決して平和の使者として我国の門戸を叩(たた)いたのではない。滔々(とうとう)たる西力東漸[西欧諸国の東方進出・侵略]の風潮に乗つたアジア植民地化の侵略者として来寇(らいこう)したのである」

 宮野にとって、ペリーは「侵略者」でなければならなかった。そのことは、進行形だった日中戦争を位置づけた次のくだりに表れている。「アジアの欧米植民地化を否定し、東亜の新秩序を建設するため、国運を賭して敢行しつゝある皇国聖戦」。東亜新秩序とは、中国侵略を正当化するため近衛文麿首相が発表した38年の声明。宮野は戦争の大義を丁寧になぞっていた。

 真珠湾攻撃はこの記事から約9カ月後。太平洋の国々を激戦地にすることを予告したかのような一文でもあった。宮野は「東亜新秩序建設」と、ペリー上陸記念碑撤去とを同一視していたのではなかったか。

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