「城ラマ」マイスターが行く<1> 小机城|カナロコ|神奈川新聞ニュース

「城ラマ」マイスターが行く<1> 小机城

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2017/04/06 13:31 更新:2017/04/17 19:40
【2016年8月14日紙面掲載】
 日産スタジアムから鶴見川を挟んだ北側に目をやると小山がみえる。そこは亀ノ甲山と呼ばれ、1478(文明10)年4月、扇谷上杉氏の太田道灌が、長尾景春と共に反旗を翻した矢野兵庫の小机城を攻めたときに陣を構えたと伝わる場所だ。その亀ノ甲山から南西方向、まさに目と鼻の先に小机城がある。この時道灌は「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞したと伝わる。2カ月の攻城戦の後、小机城は落城した。

 小机城がいつ頃築かれたのかは、正確には分からない。太田道灌によって落城させられた小机城はその後一時廃城になったらしい。お城というと、領国の中心にあって必ず城主がいて、その城を中心に城下町が形成されているようなイメージがあるが、戦国時代の城は必ずしも城主がいたわけではない。極端な例を挙げると戦いの時だけ使われ、その後使われなかった城もあるし、城主のいない城もたくさん存在していた。つまり必要に応じた使われ方をしていたのだ。

 戦国時代になると小田原北条氏が勢力を増し、2代北条氏綱は関東進出の足掛かりとして小机城を再興した。小机は、相模にある玉縄城と武蔵にある江戸城のちょうど中間地点にあり、北条氏の支城網の重要な一角を占める。矢沢往還、中原道、神奈川道を押さえる場所であっただけではなく、当時は神奈川湊から小机河岸まで船で上れたらしく、鶴見川の水路の要所でもあったようだ。

 氏綱は信用の厚かった笠原信為を城代として配し小机衆という軍団組織を編成した。その後北条三郎、氏堯、氏光らの北条一族が城主となったが実質的な支配は城代である笠原氏に任されていたようである。しかし北条氏は1590(天正18)年に豊臣秀吉による小田原征伐により滅亡し、小机城も北条氏が滅亡すると廃城となった。

 現在、城跡は竹林を多く残す小机城址(じょうし)市民の森として整備され、毎年4月の初めには小机城址祭りが、10月には竹灯籠祭りも催されている。東郭、西郭をはじめとして多くの遺構が状態よく保存されており、特に規模の大きな空堀は一見の価値がある。軽く散歩をしながら城址巡りをするにはちょうどよい大きさだと思うのでぜひ訪ねてもらいたい。小机城代であった笠原氏の墓所が小机駅から徒歩3分にある雲松院である。このお寺、大河ドラマ「真田丸」で徳川家康役を演じている内野聖陽さんの実家だそうだ。小机城探索の折は一緒に訪ねてみてはいかがだろうか。

 にのみや・ひろし 1968年生まれ。横浜市港北区のOA機器部品メーカー社長。城郭全体を地図や資料を使いこなして再現し「城ラマ」を製作している。「城郭復元マイスター」を自ら名乗る。

◎亀ノ甲山 横浜市港北区新羽町 市営地下鉄ブルーライン北新横浜駅から徒歩15分(明確な遺構はありません。現在工場地帯)
◎小机城址 横浜市港北区小机町 JR小机駅から徒歩15分
◎雲松院 横浜市港北区小机町1451 JR小机駅から徒歩3分

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