神奈川新聞と戦争(33)1941年 読者意見に徹底反論|カナロコ|神奈川新聞ニュース

神奈川新聞と戦争(33)1941年 読者意見に徹底反論

記念碑撤去問題で読者からの反論を掲載した1941年3月14日付の神奈川県新聞1面

 「光輝ある軍港都市から『彼理(ペルリー)上陸記念碑』撤去せよ」と題し、横須賀・久里浜海岸に立つペリー上陸記念碑の撤去を訴えた神奈川県新聞(本紙の前身)の記事が掲載された翌日、1941年3月14日には早くも反論が掲載された。

 前日同様、1面トップは記念碑撤去問題。見出しは「ペルリ記念碑即時撤去 厳然たる決意示せ 抹殺運動全県下に拡大か」。抹殺とは物騒だ。記事は「米国の侵略的意図の表徴たる該記念碑の存置をもつて国辱的なり」とする意見が県内有力者の間に広まり、ついに「挙県的運動にまで進展せんとする機運」が強まったとする内容だった。

 反論は、その記事の傍らに「撤去論に一部の反対」として載せられた。撤去を主唱した横須賀市民の宮野庄之助(後に県新聞社の横須賀支局長の立場にあることが明かされる)に宛てた体裁をとっている。

 「宮野氏の国民としての憂国の情には心から敬意を表するが同氏は小さな国民としてでなく大なる度量を以(もっ)て世事に対処すべきである。彼理が日本に来つた理由は兎(と)も角(かく)その事実に依(よ)り日本が今日世界の大国となり得る最初のきつかけがつくられたのである。若(も)し彼の来訪なくんば果して良く日本は今日の地位を築き得たであらうか恐らく世界文明より甚だしく後れ東洋の一角に封建社会の旧態を現出してゐたであらう。その記念碑が(略)我国に結果した事実に徴して折角建設されてゐるものであるから之(これ)を撤去する必要はないと思ふ。宮野氏の所説を十分肯定しながらもわれわれは斯(か)かる末梢(まっしょう)を取上げることの必ずしも大国民的襟度でないことを考へるのである」

 目的はどうあれ、ペリー来航が日本を国際社会に開いたことは確かであり、いっときの日米の緊張を理由に記念碑を撤去するのは国際人としての度量が小さい-。実に穏当な戒めだが、しかし宮野は、この意見を徹底的に否定する。

 一連の記念碑問題を検証した本社元論説副主幹の山室清は、著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」(94年)で「こうした読者の反対論をこれ幸いとばかり、今度は一日置いた十六日付には、一面の半分近くをつぶして(略)署名入りの大論文が載る」と記した。

 それが、41年3月16日の1面「識者の批判求む 読者氏の反対論を駁(ばく)す 宮野庄之助」と題した記事だった(横須賀支局長の立場はまだ明かされない)。

 読者の反論も宮野の再反論も1面に掲載されたとはいえ、前者が26行で辛うじて2段の扱いであるのに対し、後者は210行超の長文を四つの小見出しを挟みながら7段にわたって大展開した。山室の言葉を借りれば、読者の反論自体も、この「大論文」を引き立てるため周到に用意された「自作自演」に見える。

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