【連載】「渡辺先生」と「門馬君」〈2〉畏怖 永遠のライバル|カナロコ|神奈川新聞ニュース

【連載】「渡辺先生」と「門馬君」〈2〉畏怖 永遠のライバル

決勝で敗れ、閉会式を見詰める横浜・渡辺監督(右)の後ろ姿

1970年代に「タテジマ」の名を全国に知らしめた東海大相模。当時、その背中を追い掛けていた横浜・渡辺元智監督は、全てを鮮明に覚えている。

65年夏に福岡・三池工を甲子園初出場で頂点に導いた原貢氏(75)が、66年に東海の監督に就任。70年夏に同校初の全国制覇を遂げると、74年から4年連続で夏の甲子園に出場(原氏は77年に東海大に転出)。東海は、70年代だけで6度の夏の甲子園出場を記録した。この間の両校の公式戦対戦成績は、東海が8勝2敗と圧倒している。

後に「永遠のライバル」と呼び合う間柄は、このあたりが起点となる。74年の神奈川大会決勝、保土ケ谷球場。4-1で横浜を下した原氏は試合後、一塁側ベンチに渡辺監督を訪ね、握手を求めた。「元ちゃん、ありがとう。甲子園ではいい試合をしてくるよ」

渡辺監督は「あの時代はサガミの全盛期だった」と振り返る。「原さんに憧れて、全国から選手が集まってきた。原さんの個性がそのままチームの個性になって、豪快なバッターがゴロゴロいた。(自分も)ベンチで、選手だけでなく原さんを見ていたよ。原さんの人間性かな。(自分より)一回りも二回りも大きかった」。記憶は、畏怖の念とともにある。

がむしゃらにぶち当たっては幾度とはね返された、苦い敗戦の数々。「しかし、『打倒、原! 打倒、原!』であきらめなかった。何年かかろうと倒してやろうと。そういう執念が花開いた」

その東海と入れ替わるように、80年代に入ると横浜が新時代の到来を告げた。さらに横浜商(Y校)や桐蔭学園などが覇権争いに加わった。その中で横浜が頭一つ抜け出し続けたのはなぜか。渡辺監督は「うちが消えなかったのは、ヒルのようにしつこく、しがみついてきたから」と語る。今や「王者」と呼ばれる横浜は、原・東海を倒すための緻密な野球をさらに磨き上げ、神奈川の高校野球レベルそのものを底上げするまでになった。

超えるべき最大のライバルが若き渡辺監督を奮い立たせ、爪を研がせた。「われわれ指導者は、挫折の繰り返し。栄光より挫折。勝利より敗北。その中で自分は覚えてきた。そりゃあ月日はかかりますよ。でもね、40歳ぐらいまでに見えないと(指導者として成功するのは)難しい」

昨夏、時を経て再び吹き荒れた「タテジマ」旋風。東海・門馬敬治監督は、折しも40歳を迎えていた。

【神奈川新聞】

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