時代の正体〈411〉主観に傾倒する政権の暴走 山崎雅弘さんに聞く(上) 

歴史と向き合う

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2016/11/02 15:12 更新:2017/03/23 17:04
【時代の正体取材班=田崎 基】戦後の歴史研究が積み上げてきた学問的通説に根拠も薄く疑義を唱え、あるいは「ねつ造」と決めつける言説がはびこる。戦史・紛争史研究家の山崎雅弘さん(49)がことし7月に「5つの戦争から読みとく日本近現代史-日本人として知っておきたい100年の歩み」(ダイヤモンド社)を著したのは「過ちを繰り返さないために」との思いからだ。自国の過去を美化する歴史修正主義のうねりをどう見ているのか。 

 この数年で、過去の歴史で日本が悪いことをしたのはねつ造だとか、先の大戦はいい戦争だったとか、そうした「歴史修正本」がちまたにあふれるようになった。

 安倍晋三首相の発言が象徴的だ。ことごとく主観的。安全保障関連法案の審議で「日本が戦争に巻き込まれることはありません」「自衛隊のリスクは高まりません」と断言してみせた。ところが本来言い添えられるべき「なぜならば…」という客観的な裏付けがない。

 報じるメディアもそう。アベノミクスの成果も、東京電力福島第1原発事故も、権力者が主観で語るものを「首相はこう語った、大臣はこう述べた」と伝えるだけ。客観的な視点からの検証がなされていない。

 歴史認識についても同じことがいえる。政治家の靖国神社参拝を正当化する言説に「英霊が闘ってくれたおかげでいまの平和な日本がある」というものがあるが、これは主観にすぎない。

 先の大戦の指導者たちが守ろうとした、天皇を頂点にした国の秩序「国体」が敗戦で崩壊し、社会のシステムが大きく変わった結果、平和な民主主義国になった、というのが第3国から客観的にみた歴史的事実だろう。

 ものごとは主観的視点と客観的視点の双方から見詰めないと実態がつかめない。そうであるのに、ときの政治指導者が語る主観ばかりが社会に共有される現状に危惧を抱く。それは戦前・戦中の日本と同じだからだ。客観的視点を軽んじ、国体思想からなる主観であらゆる物事を定義した。結果、誤った方向に進んでも、誰も客観的に「間違っている」と言葉にして指摘することができなくなってしまった。

 そうした過去に照らし合わせると、現在の政治は「主観が暴走している」点で大きな問題だといえる。

異論なく


 山を歩くとき、普通は地図や方位磁石といった状況認識のための補助的ツールを手にしながら歩く。「この道であっている」という思い込みで先頭を歩くリーダーに付いていくのはリスクが高い。「俺は分かっている」「この道しかないんだ」という主観だけでは正しい道から外れても、そのことに気付くことができない。

 安倍首相は「この道しかない」と繰り返しているが、まさに主観への過度な傾倒の現れだ。実際には選択肢はいくらでもあるし、少なくとも政治家は「他の道もある」と示す責務がある。その上で、これが最善の選択だと国民に示さなければならない。

 沖縄の基地問題でも安倍首相は「辺野古への移設が唯一の選択肢だ」と言う。だがグアムの米海兵隊全面撤退などを踏まえると選択肢は他にもあり得る。

 それに追随するいまの政治状況も危機的だ。何となくその主張を受け入れてしまう。客観的な裏付けを求めたり、異なる視点からの意見が出たりしていいはずだが、出てこない。安倍首相の言うことだけで大きな流れがつくられていっているように感じる。

重なる今


 そうした現状認識から「5つの戦争から読みとく日本近現代史」を出版した。あらためて気付かされたのは、日清戦争から太平洋戦争に至る中で、日清・日露戦争までは客観的視点があった、ということだ。

 日清戦争は列強の帝国主義に乗り遅れまいとする日本の都合で始めた戦争だったが、一方で限界も認識されていた。

 陸上の戦闘で日本軍は勝利を収めていたが、戦費や輸送力に課題があり、長期戦になれば分が悪いと分かっていた。そのため優勢に立つと即座に和平交渉に入った。賠償金をロシアからせしめるべしという声もあったが、結局、賠償金なしで講和を成立させた。当時の政治指導者はそれが賢明な判断だと分かっていた。戦争遂行能力が限界に達していると客観的に把握し、それを踏まえた合理的判断ができていたということだ。

 だが第1次世界大戦のころから徐々に...

COMMENTS

facebook コメントの表示/非表示

PR