時代の正体〈274〉チマ・チョゴリ(中)未来を消させぬため

  • 神奈川新聞|
  • 公開:2016/03/20 11:57 更新:2016/03/21 21:20
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来し方


 ヘイトデモがやって来ると聞き、つえを突きながら集合場所の公園へ向かったのは1月31日のことだった。日の丸がはためく中、男たちが「ゴキブリ朝鮮人を殺せ」と叫び、「帰れ!帰れ!お前が帰れ!半島へ」と書かれたプラカードが揺れていた。

 趙は抗議に集まった人たちの前に立った。

 「私たちは親が植民地時代に日本にやって来た。日本に貢献したが、迷惑は掛けていない。ヘイトスピーチをする皆さんにも家族に韓国・朝鮮の人がいると思う。その先祖も韓国・朝鮮から渡ってきた。炭鉱で石炭を掘ったり、日本で働いてきた先祖に感謝するならまだしも、ヘイトスピーチなんて許されない」

 何でいまさら、という憤怒でマイクを持つ手が震えていた。

 母に抱かれ、植民地支配下の朝鮮半島から海を渡った。日中戦争が始まった翌年の1938年、生後6カ月。父は九州・小倉の炭鉱で働いた。

 学校に上がると「チョーセン、チョーセン」といびられた。「でも、何くそという思いがありました。お母さんから、お父さんが掘った石炭のおかげで日本の列車は走っているんだよ、私たちは何も悪いことをしていないんだよ、と聞かされていたから」

 父は戦後間もなく、肝臓を悪くして亡くなった。劣悪な環境で働かされ、粉じんをたくさん吸い込んだのがいけなかったのだ、と趙は考える。

 母はいつもチマ・チョゴリを着ている人だった。夏は麻、冬は絹。民族的自尊心が高く、礼儀作法や風習を教え込まれた。「チマ・チョゴリを着ていると朝鮮人の家と分かるから、嫌だった。いまとなってはありがたいですが」

 17歳で見合い結婚し、川崎へ移り住んだのは58年。運送業を営み、4人の子どもを育て上げた。

 娘は日本人と結婚した。孫には「ハルモニ(おばあさん)」と呼ばせ、焼き肉やキムチでもてなした。「せめて、そうして自分の民族を意識してほしい、と」

 川崎の女性史を記録した聞き書き集「多摩の流れにときを紡ぐ」で、趙の来し方がつづられた文章は、こう結ばれている。

 〈(日本人との結婚に反対した)主人も今では、孫たちに対して、「おまえたちは国際人だからなあ」と言います。韓国人でもなければ日本人でもない、韓国と日本の文化の両方を理解できる「国際人」なんだと、そのプラス面を積極的に評価しようと、ようやくそういう気持ちになったようです〉

 発刊は90年。さらに月日を経て、ひ孫もでき、老境を迎えたいま、「何でいまさら」の思いは募る。

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