段葛再生<4>敗軍の将に見物人多く|カナロコ|神奈川新聞ニュース

段葛再生<4>敗軍の将に見物人多く

平宗盛父子

大倉幕府跡に立つ碑。頼朝は当初大倉の地に幕府を構え、政治を行ったため大倉幕府と呼ばれるようになった=鎌倉市雪ノ下

 壇ノ浦の合戦で勝利した源義経は1185(元暦2)年5月初旬、捕虜となった平家の総帥・平宗盛、清宗父子を連行して鎌倉へ向かった。一行は5月15日、酒匂(現、小田原市酒匂付近)に着いたが、頼朝が派遣した北条時政がそこで父子を受け取り、義経の鎌倉入りを禁じた。

 父子は翌日、鎌倉に入った。宗盛は輿(こし)、清宗は馬に乗っていた。家人の源則清、平盛国らは騎馬で従った。父子は若宮大路(段葛)を経て横大路に入った。「観る者堵牆(としょう)のごとし」だった。多くの庶民が見物に詰めかけた様子がうかがえる。

 鎌倉幕府が編さんした「吾妻鏡」は、父子が段葛を渡ったのか、その脇を進んだのかについて触れていないが、見物人が大勢だったことを考えると段葛だったと思われる。

 鎌倉入りを果たした頼朝が大倉の地に構えていた御所の西の対屋(たいのや)(離れ屋)が居所となった。夜になって、頼朝の命令で大江広元が食事を勧めたが、宗盛は手を付けず「ただ愁涙に溺るるのほか他なし」だった。既に死罪の勅許が下っていた。

 宗盛らが京に送還される日が近づいた6月7日、頼朝は罪人の宗盛に直接対面せず、簾中(れんちゅう)からその姿を見た。宗盛は「ただ露命を救はしめたまはば、出家を遂げ仏道を求めん」と語るばかりだった。今更、死罪を許されるすべはなく、周囲は宗盛を非難した。

 義経は6月9日、頼朝の命令で宗盛父子を連行して京都へ向かった。2人は途中で処刑された。その首は、京都・六条河原の獄門の前の木に掛けられた。

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