神奈川新聞と戦争 創刊号と戦意高揚

神奈川新聞社が発足し初めて発行した1942年2月2日の本紙。「全マレー半島を制圧」など戦況報道が大半を占めた

 きょう2月1日は本紙前身の横浜貿易新聞(横貿)が126年前、1890(明治23)年に誕生した記念日であり、また大戦下の1942(昭和17)年に現在の神奈川新聞社が創立した日でもある。戦時体制は自由な報道を制約した一方で、業界の経営基盤を盤石にした。新聞は先の大戦中、進んで戦意高揚に手を貸したのだった。

軍官民の機関紙
 「全マレー半島を制圧」「荒涼たる死の街 激戦の跡バトパハを視る」「赤道超えて日の丸は征く 見よ皇軍赫々(かっかく)の大戦果」(引用は新字に改変、以下も)。勇ましい言葉は、本社創立後初めて発行された2月2日の本紙1面の見出しの数々。記事の冒頭には「大本営発表」とあった。

 本紙のルーツは横貿のほか横須賀日日新聞や県西部の東海新報など。これらが統合され、現行の「神奈川新聞社発行の神奈川新聞」となったのは、戦争遂行の国策に沿うものだった。

 同じ1面の左下に「白雪に寄す」と題した樋口宅三郎社長の文章がある。「大東亜戦争は世界史の書換へを必然とする。アジアの指導者日本は今や世界の指導者たるの運命を担ふてゐるのである」「本紙は神奈川県の一県一紙として、神奈川県の軍官民の機関紙たる使命に挺身(ていしん)するであらう」

経営安定の契機
 本社報道部長、編集局次長などを務めた山室清の著書「新聞が戦争にのみ込まれる時」(94年、かなしん出版)に、統合の実態が描写されている。「県の特高課がそれら県内日刊紙の経営者を県庁に集めた。面々を前に、特高課主任・警部荒木政一は『非常時を突破するための総力戦体制を整える国の方針で、新聞にも自粛、統制を求めることになった』と切り出し『今後は申し込み以外の広告は一切認めない。広告勧誘はすべて恐喝と見なして取り締まる』と言い渡した」。40年7月のことだ。

 広告収入を断たれた新聞は、廃刊か合併かを迫られた。残った新聞社にとっては結果的に、競争相手のない絶好の経営環境がもたらされた。元毎日新聞記者の前坂俊之が著した「太平洋戦争と新聞」は、地方紙の一部が「政府の統制を心待ちにする結果をもたらした」と指摘する。

 本紙成立を予告する神奈川県新聞、神奈川日日新聞、相模合同新聞の社告にはこうある。「吾(われ)ら三社は茲(ここ)に率先言論奉還の赤誠を披瀝(ひれき)し各々(おのおの)その歴史伝統に拘泥せず、機構、体験の悉(ことごと)くを挙げて二百万県民の総意に応ふるの理想的『県一社』の実現に挺身すべく…」。日付は真珠湾攻撃の1週間後、41年12月15日。

国策協力の責任
 38年に新聞用紙制限令が出され、41年7月には朝刊用紙の配給が全国一律4ページに。そして統制は物質にとどまらなかった。戦局をめぐる情報は、不都合な事実を隠蔽(いんぺい)し小さな成果を誇張する軍に依存するほかなかった。戦時中の本社には毎夕、県警特高課の検閲係がやって来て記事や写真の内容を点検したという。

 戦後、樋口は「国民の生死にかかわる抜本的な問題には目を閉じ、耳をふさいで『国策協力』の太鼓をたたいたのである」と自らの戦争責任を顧みた。

 一時期の横貿は反権力だった。28年、最高刑が死刑に引き上げられた治安維持法改定や、関東軍の張作霖爆殺事件に対しては厳しい論陣を張った。だが3年後の満州事変では、その勢いはなかった。山室は記す。「神奈川新聞誕生への歩みは、多くの新聞人たちの戦争迎合、戦争讃美、戦争協力への傾斜を内包しつつ、そのまま新聞が戦争にのみ込まれてゆく道筋にほかならなかった」

 改憲論議や安全保障関連法などをめぐり、政権はメディアへの圧力を強めている。70年余り前の経験を教訓にできるか、それとも…。春以降の文化面連載で、本紙と戦争の関わりを振り返り、現代社会を考える。

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