時代の正体〈204〉民主主義考「決められる政治」の末路

ナチスドイツに学ぶ

 20世紀最悪の独裁者に対して誤解があるかもしれない。「ヒトラーが暴力的な手段で、あるいは逆に、民衆の支持と民主的な手続きで政権に就いた、との解釈は真実の半分ぐらいしか言い当てていない」。東大大学院の石田勇治教授(ドイツ近現代史)はそう言う。実際は、政界の保革伯仲を打開したい保守政治家や財界に担がれたのだった。そして議会制民主主義は骨抜きにされ、人権を脅かす法律が矢継ぎ早に成立…。それは遠い昔の外国の話ではない。侵略と虐殺は、今の日本でも称揚される「決められる政治」の帰結だった。 

支持なき過激政権


 「ナチ党はもう終わりだ、という世論の観測があったほどだった」と石田教授は解説する。ヒトラー政権が誕生する直前の1932年11月のことだ。同月の国会選挙でヒトラー率いるナチ党は第1党の座こそ確保したが、議席を減らし、過半数には遠く及ばなかった。その上、ナチ党の牙城といわれたチューリンゲン州の同月の地方選でも、4割もの議席を失った。

 にもかかわらず、翌33年1月、大統領ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命した。ナチ党衰退の一方で共産党が躍進したことを脅威と捉えた財界が、ヒトラーを首相にするようヒンデンブルクに請願していたのだ。当時の保守派の間には、過激な民族主義で大衆を扇動するヒトラーを利用し、「用が済めば放り出す」との楽観的なもくろみさえあったという。

 石田教授は強調する。「必ずしも民衆の支持を受け、選挙でヒトラー政権が生まれたわけではない。それを可能にした制度と、保守派の考えを検証しなければ」。その制度こそ、当時最も進んだ憲法といわれたワイマール憲法だった。

進んだ憲法の陥穽


 32年11月の国会選挙でナチ党に票を入れたのは、大まかにいって国民の4人に1人にすぎなかった。そのナチ党に強大な権力を与えたのは、保守派の思惑と、制度の陥穽(かんせい)だった。

 「ワイマール憲法は確かに、男女同権など人権の面では当時最も優れた憲法だった。しかし、統治機構に関しては問題があった」と石田教授は説明する。

 当時のドイツは国会と大統領の二元代表制。国民の直接選挙で多数を占めた政党の代表が首相になり、同じく選挙で選ばれた大統領が首相や閣僚の任免権、国会の解散権を持った。そうやって相互補完的にバランスを取っていた。

 だが、大統領には「切り札」があった。「大統領緊急令」だ。同憲法48条には「公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またその恐れがあるときは、共和国大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ…」と定められていた。「必要な措置」とは事実上、憲法が定めなかった「大統領の立法行為」をも認めるものだった。

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