1. ベイスターズ

      ベイ:2日から阪神、広島6連戦 先発充実CSつかめ

       虎と鯉(こい)の尾をつかめ-。セ・リーグ4位の横浜DeNAは2日から3位阪神(甲子園)、2位広島(横浜)との6連戦を迎える。球団初のクライマックスシリーズ(CS)進出を占う2カードでどれだけ上位との差を縮められるか。  今季は阪神戦が4勝12敗、広島戦は6勝11敗1分けだが、前カードの首位巨人との3連戦を2勝1敗と勝ち越し、ナインは勢いに乗っている。今季は残り32試合で3位とのゲーム差は5.5。CS出場のための鍵はやはり、4位浮上に導いた先発陣の手中にある。 ◆3位阪神と5.5ゲーム差 筒香復帰で打線に厚み  3位阪神との直接対決は2日からの3連戦を含めて残り8試合。逆転のCS進出へ、可能性は大いに残されている。  3連戦の初戦はいきなりの天王山だ。先発が予定される久保が投げ合う相手は、ハーラートップとなる11勝で並んでいるメッセンジャー。古巣には4月8日(甲子園)に6回を投げ、4点を失いながらも移籍後初白星を挙げている。  阪神の勝ち頭に土をつけられれば、与えられるダメージは大きい。久保も自身初の投手タイトルとなる最多勝へ「取れるうちに取っておきたい」と燃えている。  3日は山口、4日は三浦と好調な右腕が続く。8月の月間成績は山口が4試合で2勝0敗、防御率2・82。40歳の三浦は4試合で3勝0敗、防御率1・20という驚異的な数字を誇る。  横浜スタジアムで迎える次カードの広島戦は、8月31日の巨人戦で11勝目をつかんだ井納が控える。8勝のうち6勝を本拠地で挙げているモスコーソがいるのも頼もしい。左腕尚成も、同29日の巨人戦で6回3失点とまずまずの結果を残した。  一方、先発陣の好投に打線も応えている。けん引役はグリエル。左脇腹痛から約1カ月ぶりに復帰した8月26日から、ここまでの6試合で打率4割2分8厘、2本塁打と打ちまくっている。広島戦と阪神戦は計35打数14安打、打率4割と相性がいいのも好材料だ。  さらに広島とのカード1試合目の5日には、脳振とうで離脱していた筒香が復帰する予定。グリエル、ブランコ、バルディリスと外国人右打者で固める中軸に、リーグトップの得点圏打率4割5分1厘を残す左のスラッガーが加われば、さらに厚みを増す。  5月以降の成績に限っては、横浜DeNAが46勝39敗2分けでリーグ首位に立っている。2007年シーズンから採用されたCS制度だが、出場していないのは両リーグで横浜DeNAだけだ。この勝負の6連戦で悲願の舞台をぐっとたぐり寄せられるか。

    2. 鉄道

      「ZARD」渋沢の駅メロに 地元ファン 活動実る

       秦野市出身の坂井泉水さん(享年40)がボーカルを務めた人気グループ「ZARD」の歌が12月下旬から、小田急線渋沢駅の「駅メロ」になる見通しとなった。同市は3日開会の市議会9月定例会に提出する一般会計補正予算案に、関連経費を計上。楽曲は音楽事務所によるアンケートで決めるという。    ZARDは「揺れる想い」など数々の名曲で知られ、史上最多のアルバム9作連続のミリオンヒットという記録を持つ。2007年に闘病中の事故で亡くなった坂井さんをしのび、高校通学の際に利用していた渋沢駅の駅メロにZARDの楽曲を-と、地元自治会や商店街、ファンらが11年ごろから活動してきた。市はこうした活動に後押しされ、予算計上を決めた。  今年4月には駅前でコピーバンドによるライブを開催。参加した「ZEST」のボーカル斉藤和さん(34)=埼玉県蓮田市=は、「ZARDに人生を救われた」というほどの大ファン。「何年もかかってようやく実現した。駅を通るいろんな人が、少しでも元気になってくれたらうれしい。これで永遠に愛される楽曲になるような気がする」と喜びを口にした。  地元は地域活性化の好機として歓迎している。駅前で「渋沢百貨店」を営む秦野市西商店会連合会の関野茂信会長(70)は「渋沢といえば丹沢の駅というイメージだったが、今度はZARDの駅としても認知してもらえる。地元としてどんどん盛り上げていきたい」。11月23日の地元の祭りでは再びコピーバンドライブを行う予定という。  秦野市も、来年の市制60周年の記念事業として駅メロをバックアップする。今月27、28日の「秦野たばこ祭」ではZARDの「負けないで」に合わせた「メロディー花火」を打ち上げるほか、市の紹介映像などでも楽曲を使う予定という。  今後は市、小田急電鉄、音楽事務所が楽曲や駅メロに使う音源製作などについて協議していく。市企画課は「秦野を全国に発信し、多くの人に知ってもらえるきっかけとなったらうれしい」と話している。  ◆坂井 泉水さん 1967年生まれ。秦野市内の小中学校、県立伊志田高校、松蔭女子短大卒業。91年にZARDのボーカルとしてデビュー。ほとんどの楽曲の作詞を手掛け、「負けないで」「揺れる思い」「マイフレンド」など数々のミリオンヒットを生んだ。

    3. 社会

      「たちかぜ」自殺訴訟 遺族 犠牲また「悔しい」

       同じ横須賀基地所属の隊員が、再びいじめで命を落とした。「自分たちが裁判で闘ってきたことが生かされず、悔しい」。海自横須賀基地所属の護衛艦「たちかぜ」の乗組員だった長男=当時(21)=を失った宇都宮市の女性(60)は言葉を失った。  長男は自殺前、上司にいじめを訴えたが、被害は続き、自ら電車に飛び込んだ。海自がいじめが原因と認めなかったため、女性は真相解明を求めて提訴。8年にわたる裁判の末、今年4月の東京高裁判決で国の責任が確定した。  今回も上司に相談しながらも、いじめが止まらなかったことに「(自殺した隊員は)希望を見いだせなくなったのだと思う。自衛官一人一人の命が軽んじられ、やりきれない気持ちでいっぱい」と肩を落とした。  「たちかぜ訴訟」弁護団長の岡田尚弁護士は、「いじめの存在をすぐに認めたのは、遺族が声を上げてきた成果」としつつ、「一般の集団よりも自殺が生み出されやすいことを、自衛隊はまず自覚すべきだ」と対策の不十分さを批判した。  岡田弁護士は、集団生活で上下関係の厳しい自衛隊の閉鎖性が自殺の要因と指摘し、「現場で苦しんでいる人たちに対する想像力をもっと持ってほしい」と話した。  女性は今、全国の被害者家族と連携し、自衛官の人権を守るために活動している。「今回も、私たちに一言相談してくれたら」。岡田弁護士は、今も声を上げられずに苦しんでいる自衛官を思い、呼び掛けた。「支えてくれる人はいる。自分だけで解決しようと思わないでほしい」

    4. PR

      高校生議員が黒岩知事に提言 ハイスクール議会2014

       日本青年会議所 関東地区 神奈川ブロック協議会(JC)は8月、高校生が県政に関する様々なテーマを提言する「かながわハイスクール議会2014」を神奈川県、県議会、県教育委員会と共催で実施。高校生の「議員」が黒岩知事と議論を繰り広げた。今年で9回目をむかえ、8月4、8日、15日の3日間で実施。県内の公・私立計52校の高校生132人が議員となり、福祉、政治、復興、地域活性など8つの委員会に分かれて高校生の視点から課題を探った。  最終日には、本会議場で黒岩知事や県議会議長を迎えて質疑や提言が行われた。  15日は知事への質問と政策提言が行われた。情報化社会のSNSを取り巻く環境について質問した高校生議員は「事件事故が多くなっているなかで、学校での対策に一貫性がない」と投げ掛けた。黒岩知事は「過去に事例のない課題に向けて、高校生から現状を学べる機会をつくりたいと」と述べた。  初めて参加した高校1年の男子生徒は委員会での意見集約と提言をまとめるのがたいへんだったと振り返った。機会があれば来年も是非参加したいと意欲を語った。 日本青年会議所(JC)とは? 各地でまちづくりを展開している20~40歳までの青年の集まり。神奈川県内だけでなく、全国、世界に存在する団体として地域活性や青少年育成、ボランティアや行政改革などの社会的課題に積極的に取り組んでいる。 神奈川県内には21の青年会議所があり、それぞれが地域の特性に合わせた事業を継続的に行っている。興味があり、一緒に活動したい方も歓迎しているとのこと。 【神奈川の青年会議所の事業をご紹介】(詳しくはコチラ↓)http://www.jaycee.or.jp/2014/kanto/kanagawa/ 青年会議所が主催する一大事業「神奈川ブロック大会 厚木大会」 9月13日、厚木で日本人の「粋」な姿を披露する。歌舞伎俳優中村獅童さん、女優真矢みきさん、作家・曽野綾子さんが出演し、富山泰傭さんは県青少年交響楽団と復興支援のクラシック演奏をおこなう。同日、厚木中央公園では「たから市」が開催され、Berryz工房、BOSO娘が出演する。http://www.jaycee.or.jp/2014/kanto/kanagawa/?page_id=1940 【7支部の紹介】 横浜青年会議所 (一社)横浜青年会議所は33回を数える横浜開港祭や青少年育成事業を開催し明るい豊かなまち横浜の実現を目指し、共に青年の運動を力強く推し進めて参ります。URL: http://www.yokohama-jc.or.jp/ 川崎青年会議所 写真の川崎大師御供茶式をはじめ、今後も様々な川崎の魅力を配信する事業を行ってまいります!川崎大好き会員大募集中です!URL: http://kawasaki-jc.or.jp/2014/ 平塚青年会議所 平塚青年会議所では地域の文化である‘七夕’を生かしたまちづくりを推進しています。写真は湘南ひらつか七夕まつりで開催した‘七夕’を感じられるグルメ総選挙,受賞者の皆さまと。URL: http://hiratsuka-jc.com/ 三浦青年会議所 三浦青年会議所では「サンドアートフェスティバル」を開催しています。五年目となる今年は、ろうそくで砂像を彩るキャンドルアーやシャボン玉で幻想的な世界を作り出すバブルアートを同時開催!子どもたちと素晴らしい時間を過ごしました。URL: http://www.miura-jc.com/2014/ 相模原青年会議所 相模原JCは昭和49年に述べ約40万人の動員を誇る市最大規模の市民さくら祭りを立ち上げ、毎年理事長が実行委員長を務める。今年は二千人フォーチュンクッキーを達成。URL: http://www.sagamihara-jc.com/ 茅ヶ崎青年会議所 OMOIYARI VILLAGE茅ヶ崎市内の中学生が提供する商品の企画・作成・販売を通して人との繋がりやおもいやりの心を知り、誰かのために行動するおもいやりあるあたたかい心を育む事業です。URL: http://chigasaki-jc.com/ 綾瀬青年会議所 綾瀬青年会議所では青少年育成事業を継続的に行政共催の元で開催しており、家族とペットボトル筏製作を通して思いやりの心、郷土愛、家族の絆を育む為の事業です。URL: http://ayasejc.jp/

    5. 社会

      【動画】防災の日、9都県市合同訓練 機関、市民ら5000人連携 相模原で

       「防災の日」の9月1日、第35回9都県市合同防災訓練がJR相模原駅前の在日米陸軍相模総合補給廠(しょう)(相模原市中央区)を中央会場に実施され、各都県市の関係機関、市民など5千人が参加した。相模原での開催は初めて。  市直下をマグニチュード(M)7級の地震が襲った想定。警察・消防の各隊員らが連携し、緊急車両の通り道を確保したり、車両を重機でつり上げたり、負傷者の発見から救助までの流れを確認した。  余震で化学物質が漏れ出した想定の事故対応は市消防局特別高度救助隊「スーパーレスキューはやぶさ」が出動。防護服をまとい、漏えい場所の特定や被災者救出にあたった。  神奈川、東京のDMAT(災害派遣医療チーム)や在日米陸軍など11機関による医療救護訓練では、傷病の程度に応じ順位付けする訓練を実施した。  会場上空などでは航空機訓練も行われ、横浜、川崎の各市消防局や県警、自衛隊などのヘリコプター13機が参加し、被災者搬送や空中消火を試みた。  訓練終了後、加山俊夫相模原市長は「多くの機関、市民による連携の有効性が確認できた。今後も訓練を重ねて役割を確認し、一人一人が落ち着いて行動ができるようにしてもらいたい」と講評。訓練を視察した安倍晋三首相は「実践的な訓練で発災時の備えを確かなものにしてほしい。国も常に防災計画を見直し、強靱(きょうじん)な国造りを進める」と語った。

    6. 在日米軍・防衛

      横須賀基地 GWきょう出港

       在日米海軍横須賀基地(横須賀市)に配備されている原子力空母ジョージ・ワシントン(GW)が2日、同基地を出港する。外務省が1日、横須賀市に伝えた。作戦航海に出るとみられる。  GWは8月8日、約3カ月の航海を終え、同基地に帰港していた。前回は、西太平洋のパトロールのほか、海上自衛隊と米韓両国の海軍が合同参加した海上捜索・救助訓練などを実施した。

    7. 裁判

      宮前、母親殺害し切断 被告 起訴内容認める 地裁初公判

       川崎市宮前区の自宅アパートで昨年3月、母親=当時(43)=を殺害し、切断して放置したとして、殺人と死体損壊、遺棄などの罪に問われた無職で当時19歳だった長男(20)の初公判が1日、横浜地裁(鬼沢友直裁判長)で開かれた。長男は起訴内容を認め、弁護側は犯行の背景として「人格障害の影響があった」と主張した。  検察側は冒頭陳述で、母親と2人暮らしだった長男は、高校に進学したころから過度に束縛されていると感じ、嫌悪感を抱いて自殺を図るなどしていたと指摘。依存関係を断ち切るためには母親を殺害するしかないと考え、人体の解体にも興味を持っていたことから犯行に至ったと述べた。  一方、長男は被告人質問で、殺害の動機を「母親から殺される恐怖があった。母は自分がいなければ生きていけず、母を殺さないと自分が生きていけないと思った」と供述。今の心境を問われ、「自分は家族に幻想を抱きすぎた。母親を苦しませ、申し訳なかったと思います」と答えた。  起訴状によると、長男は昨年3月2日、川崎市宮前区の自宅アパートで母親の頭部にボーガン(洋弓銃)を撃ち、サバイバルナイフで首などを刺して殺害し、遺体を切断してごみ収集場などに遺棄した、とされる。

    8. 政治・行政

      「特別秘書」取り下げ 成立めど立たず 川崎市長

       川崎市の福田紀彦市長は1日、市議会第3回定例会に提案予定だった「特別秘書」の設置条例案を取り下げると表明した。議会側の反発が強く議案成立の見通しが立たないと判断し、今定例会への提案を断念。福田市長は「制度の必要性は理解いただいていると思うが、タイミングにいろいろな意見があったことも鑑みて取り下げた」と述べ、次期定例会以降に再提案する意向を示した。  福田市長は8月25日に同条例案の提案方針を表明した際、主に政治色の強い公務を担う特別秘書について「施策実現に向け政財界などとの折衝や調整をより強力に行う必要性を感じてきた」などと説明。しかし、議会側には▽提案が唐突▽行財政改革に逆行▽人選への懸念-といった拒否反応が強まっていた。市長側は可決は厳しい情勢とみて、議会開会前日の同31日に取り下げを決断した。  福田市長は「残念だが、必要性は感じている。仕切り直してしかるべきタイミングで出したい」と説明。条例案の内容については、「今のところ変える必要性は感じていない」との認識を示した。  市議会の浅野文直議長は「今後の議会との関係も考慮され、総合的に検討された結論だと思う。今後も議会と市長がよい意味での緊張感を持ちながら市民のために議論を進めていければ」とコメントした。  提案予定だった条例案は特別職として特別秘書を設置する内容で、定数2人以内で任期は1年。年収は部長級を参考に最大約1100万円としていた。 ◆議会側の反発強く市長選しこりも  「十分なご理解を得られない状況であることから、議会との関係や今後の市政運営に配慮し取り下げさせていただきました」  川崎市議会定例会が開会した1日の本会議場。福田紀彦市長は提案説明の最後に特別秘書設置条例案を取り下げる方針を説明し、厳しい表情を浮かべた。条例案告示から1週間での取り下げという前例のない事態。市議からは「お粗末」との声が上がった。 ■自民の動向影響  特別秘書をめぐり、口火を切ったのは同市議会の浅野文直議長だった。「制度は必要だと思うが、認めてしまえば誰でも彼でも市長が任命できる怖さを持っている」とけん制。多くの市議から「なぜこのタイミングなのか」「行財政改革に逆行する」との声が上がる議会内の“空気”を代弁し、「簡単に通る雰囲気でない」との見方を示していた。  最も影響したのは、60人いる市議会の最大会派・自民党市議団(16人)の動向だ。石田康博団長によると、議案への対応を検討した団会議は反対意見が大勢を占め、賛成はごく少数。公明、民主の両市議団は姿勢を明確にしていなかったものの、自民の動向が影響するのは必至で、否決の可能性が濃厚となっていた。  こうした情勢を読み取った市長サイドは「(反対は)制度論ではないと感じた。市民生活に直結しているものではないので無理に今の時期でなくてもいいと判断した」と取り下げを決めたという。 ■ボタン掛け違い  根底にあるのは昨秋の市長選だ。自民、公明、民主、共産といった主要会派はいずれも福田市長の対立候補を支援して敗れ、議会内には少なからずしこりが残っていた。  特別秘書設置について福田市長は「そもそも政治的なものとの認識がない。市政運営上、最も効率的、効果的な組織をつくるだけ」と説明していた。だが、市議の大半は「政治的案件そのもの」との認識で、ボタンの掛け違いも市長にとっては誤算だった。しかも「市長選から1年もたたないうちに」と感情的な部分も見誤った格好だ。  市長と議会の関係について、ベテラン市議は言う。「この9カ月間、(全て議案を通した)『川崎の議会はおとなしい』と市長に思われ、こうした重要な議案を出してきたのであれば、議会側もカチンとくる」  一方ある市議は、福田市長がかつて秘書として仕えた松沢成文前知事が同種条例案を県議会に否決されたことを引き合いに、「そういう意味では(失敗を)学んでいるのではないか」と、強行突破を見送った姿勢を評価した。

    9. LIFE

      ドラマの台本や撮影風景も 大和でフィルムコミッション展

       大和市内で行われた映画やドラマのロケ地や出演者のサインを紹介する「さがみの国大和フィルムコミッション(FC)展」が1日、同市役所で始まった。  大和駅前の弁当店が生徒のアルバイト先という設定だったドラマ「GTO」に主演したAKIRAさんや、「闇金ウシジマくん」の山田孝之さん、大島優子さんらのサインのほか、台本、撮影風景の写真などを展示している。  9日まで。6、7日を除き、午前11時半から1日50個限定でロケ隊が食べたロケ弁当も販売される。  市イベント観光協会の主催。大和FCは2011年9月に設立。設立前年の10年度は16件だったロケの受け入れ件数は、11年度52件、12年度60件、13年度は67件と増加している。  問い合わせは、市イベント観光課電話046(260)5167。

    10. 政治・行政

      橘元衆院議員出馬へ 大和市長選

       任期満了に伴い来年4月の統一地方選で行われる大和市長選に、元衆院議員の橘秀徳氏(45)が無所属で立候補する方針を固めたことが1日、分かった。複数の関係者が明らかにした。  橘氏は次期衆院選に向けて民主党に公認申請していたが、同日までに取り下げる意向が承認された。  橘氏は中央大卒。元総務相の原口一博氏の政策秘書を経て、2009年の衆院選で大和市を含む13区から同党公認で出馬、初当選し1期を務めた。12年衆院選で落選後も再出馬を目指していたが、現市政に反発する一部保守系などからも市長選へ転身を求める声が上がっていた。  橘氏は取材に対し、「現時点では何もお話しできない。支援者への説明が終わった段階で、明らかにしたい」と述べた。  同市長選には元県議の安藤博夫氏(66)が出馬を表明。現在2期目の大木哲氏(66)は進退を明らかにしていない。

    11. 社会

      危機対応能力向上を 大地震想定し横浜市が図上訓練

       「防災の日」の1日、横浜市は大規模地震を想定した市災害対策本部運営訓練を実施した。市職員約200人に加え、陸上自衛隊や県警、海上保安庁の職員らも参加。ロールプレーイング方式による図上訓練で危機対応能力の向上や連携強化を図った。  訓練の前に、林文子市長は「私たち基礎自治体は発災時に最前線で対応し市民生活を守り抜く責務を負っている。『災害に強いまちづくり』はあらゆる施策の基盤であり、横浜がさらなる発展を遂げる上で不可欠」などと訓示した。  図上訓練は、同日午前7時に相模湾近海を震源とする元禄型関東地震(マグニチュード8・1、市内最大震度7)が発生し3時間が経過した想定で実施。局横断で組織した「医療調整チーム」や「物資チーム」、「応急復旧チーム」など17の専門チームが被害状況や市内の災害拠点病院の受け入れ態勢、不足している物資などについて情報を収集し、必要な支援体制の構築に努めた。  市危機管理室緊急対策課は「スピード感や効率性をもっと高めなければいけないと感じた。引き続き訓練を継続し、非常時に備えたい」と話した。

    12. 社会

      歴史的建造物どう守るか ヨコハマヘリテイジが所有者相談室を開設

       横浜市と連携し、歴史的建造物の調査などを行っている公益社団法人「横浜歴史資産調査会」(ヨコハマヘリテイジ)は1日、歴史的建造物の所有者へ細やかに対応するための相談室を開設した。大学教授ら専門家らでつくる同調査会は今後、所有者からの相談を受け、保存活用を手掛けるNPOや市と連携し、具体的な対応策について検討していく。  市内の歴史的建造物は会社所有など大規模な建物は把握できているが、個人の貴重な建物については十分に確認できていないのが実情という。同会の米山淳一事務局長は「保全のあり方は新たなステージに入っており、多く残る個人所有の歴史的な建物を何とか救っていく必要がある。相談室を周知し、官民が一体となって歴史ある街を守っていきたい」と話す。相談内容としては、歴史的な価値の調査のほか、相続の問題、改修に際しての建築家や職人の紹介などを想定している。  市は1988年に「歴史を生かしたまちづくり要綱」を制定。昨年には景観条例を改正し、歴史的建造物の保全を新たに盛り込むなど、所有者の「保全希望」を支える制度の拡充に努めてきた。  東京芸術大学大学院の校舎として使用されている旧富士銀行横浜支店(中区)や商業施設として復活した横浜赤レンガ倉庫(同)など市が買い取った後に保全活用されてきた事例も多い。一方、近年は本町ビル(同)や万国橋ビル(同)など歴史的な建物が失われたほか、旧帝蚕倉庫(同)も取り壊しが発表され、横浜最古の倉庫である旧日東倉庫日本大通倉庫(同)が解体されることも明らかになった。  市都市デザイン室は「これまで市としても相談を受けてきたが、相談室の設置で、会との連携をより密に細やかな対応を行いたい」と話している。  相談は、同会ホームページ上にある相談シートに必要事項を記入し、郵送、電子メール、ファクスのいずれかで申し込む。毎週水曜日(午前10時~午後3時)は電話相談も受け付ける。〒231-0012、横浜市中区相生町3の61、泰生ビル405号室、公益社団法人「横浜歴史資産調査会」(ヨコハマヘリテイジ)内「歴史を生かしたまちづくり相談室」。電話045(651)1730、ファクス045(651)1730。電子メールはyh-info@yokohama-heritage.or.jp

    13. 社会

      生ごみは家庭で処理 広がる“救世主”処理機 鎌倉市民が講習会

       ごみ減量の“救世主”と期待される非電動型生ごみ処理機「キエーロ」が、鎌倉市民の間でじわじわと広がっている。自治会を挙げて積極的に導入している市民らは、「生ごみは家庭で処理できる」と意気込み、さらなる普及へ講習会を催した。  「使ってみた感想は、とにかく『楽しい』。自然の力で生ごみがなくなり、近所での会話も弾みます」  8月29日夜、鎌倉市小町の鎌倉生涯学習センター。壇上で熱弁を振るうのは、鎌倉ハイランド自治会の会長・高橋巌さん(70)。約60人入る会議室いっぱいに集まった市民らが、熱心に耳を傾けた。「アパート暮らしでも使えるか」などの質問が相次ぎ、「自分で処理することで、減量への問題意識を持てる」といった使用感も披露された。  約500世帯1200人が暮らす同自治会の役員は昨年8月、自分たちの力でごみを減らそうと「ごみ削減プロジェクト」を立ち上げた。さまざまなタイプがある生ごみ処理機の中から、環境に優しく経済的な非電動型で分解も着実なキエーロを選択。ご近所への地道な説明を重ね、今年4月、目標だった100台の普及を達成した。  横長の形状に加えて透明なふたや風の通る隙間があるキエーロは、土の表面積が小さい縦長のバケツ型に比べ、土の表面が乾きやすく温度も上がるため微生物の活動が活発になるのが特長。葉山町下山口に住む松本信夫さん(66)が、十数年かけて考案した。  鎌倉市は2基の焼却施設のうち1基の停止を来春に控え、ごみ減量が喫緊の課題。これに対し高橋さんたちは「多くの家庭にキエーロが普及すれば、1基停止しても大丈夫」との青写真も描く。  市は、キエーロをはじめ非電動型生ごみ処理機購入費の90%、電動型なら75%を助成している。市資源循環課によると、2013年度の生ごみ処理機の普及台数は1万3017台。市内7万3344世帯のうち約17・7%が使用している。高橋さんたちは「購入手続きを簡略に、迅速にすることも普及の鍵」と話している。

    14. 高校野球

      全国高校軟式野球:準優勝の三浦学苑が帰郷「いい試合できた」

       第59回全国高校軟式野球選手権大会に初出場で準優勝した三浦学苑ナインが1日、午後0時4分新横浜着の新幹線で地元に戻った。  延長五十回の大熱戦を勝ち上がった中京(東海・岐阜)と対戦した8月31日の決勝は敗れたものの、初めての全国大会で堂々の準優勝。神奈川勢の2年連続優勝まであと一歩に迫った。  真っ黒に日焼けしたナインは、口々に「寒い」と話し、涼しい横浜に戻ったのを実感したよう。山浦誠史主将は「心の準備はしていたが、それ以上の雰囲気だった。優勝したかったが、準優勝もいい結果。悔いはない」と胸を張った。  岡村悟司監督(39)は「(決勝は)準決勝が終わったそのままの流れでアウェー感があったが、うちもいい試合はできた。秋季大会の準備は何もしていないが、3年生の力を借りて調整したい」と話した。  県秋季大会の抽選会は10日、開幕は14日。

    1. 社会

      てんでんこの先に 災害避難を考える<1>豪雨(上)

       緊急招集の連絡を受けて飛び乗ったタクシーに、猛烈な雨がたたきつけた。視界は利かず、運転手が「怖い、怖い」と繰り返す。  8月20日未明。広島市消防局の男性職員は「これまでにないものすごい大雨」に恐怖を感じながらも「長くは続かない」と思った。降っている範囲は狭い。だが予想に反し、雨は激しさを増していく。  午前1時15分。広島地方気象台などが市内に土砂災害警戒情報を発表。過去の豪雨災害の苦い経験を踏まえ、独自の避難勧告マニュアルを運用してきた市はしかし、発令を見送った。  警戒情報は災害発生の切迫度に応じた5段階の指標で「第4段階」。避難勧告か、より危険な状況を意味する避難指示を出す手はずだったが、雨の予測も判断材料の一つになっていた。  「マニュアルに沿わなかったわけではない。でも、これほどの被害が出てしまうと…」。市北部の100カ所以上で土石流や崖崩れが発生。70人以上が命を奪われた。最初の避難勧告が出されたのは、1時間で100ミリを超える雨が降り、被害の119番通報が相次いだ後の午前4時15分だった。  日本海に浮かぶ最北の島、北海道礼文町も避難勧告をめぐって批判にさらされた。広島で不明者の捜索が難航していた24日朝、1時間30ミリ前後の激しい雨が続き、島の南部で河川が氾濫。職員が住民の避難支援や冠水対応に追われていたころ、土砂災害警戒情報に続いて注意喚起の気象情報が稚内地方気象台から発表された。「50年に1度の記録的な大雨になっている」  50年に1度の大雨とは、昨夏運用が始まった特別警報の発表基準に相当する。雨の範囲が限定的だったため特別警報は出なかったものの、事態を重くみた北海道は町に避難勧告を出すよう繰り返し電話で要請。しかし、町は「人手が足りない」と応じなかった。島北部で土砂崩れが発生し、母娘2人が犠牲になったのは午後1時ごろ。勧告はその4時間ほど後だった。  町総務課の幹部は振り返る。「すぐに勧告を出すとしたら町内全域を対象にするしかなかったが、道路が寸断されて避難所を開くのは無理だった。こんな経験はしたことがない」  豪雨時の避難対応が大きな問題となったのは、今夏だけではない。10年前の2004年、新潟や福井、兵庫などで勧告の遅れや伝達の不備を問われるケースが相次ぎ、国は市町村向けに勧告の判断指針を作成。それを今年4月に改定し、一歩踏み込んで「空振りを恐れない早めの発令」を促すのは、なおも二の足を踏む市町村が多いからだ。  「予測不可能な豪雨が増え、自治体がためらうのは理解できる」と現状を受け止める群馬大の片田敏孝教授。津波来襲時は各自が率先して逃げる「津波てんでんこ」の教えを岩手県釜石市の防災教育に取り入れてきた経験から、こう訴える。「もはや避難勧告ありきの避難は破綻している。行動指南型の情報から状況を説明する情報に改め、住民主体の避難に切り替えていくべきだ」 ◇災害時に命を守るための避難はどうあるべきか。試行錯誤を続ける現場を追った。

    2. 社会

      「未曽有に学ぶ」語り継ぐ関東大震災 91年の節目に(上)

       10万5千人余りが命を奪われた1923年9月1日の関東大震災の廃虚の中で筆を執った「震災画家」がいた。火災旋風や押し寄せる津波、救護場面などを描いた徳永柳洲(りゅうしゅう)(本名・仁臣、1871~1936年)。手掛けた作品の多くは、東京都墨田区の復興記念館と隣接する慰霊堂に飾られ、未曽有の災禍を今に伝える。所在不明だった3点が神奈川大などの調査で慰霊堂の収蔵庫から見つかり、修復作業を経て今夏に初公開された。長い眠りから覚めた震災画は何を訴えるのか。 ■3点に光  迫る火炎を背に、おりの中の猛獣に銃口を向ける人々。身の危険を感じてか、1頭のトラが立ち上がらんばかりに身を上げ、クマはおりにしがみついている。  日本有数の動物園だったとされる浅草・花屋敷。銃殺を図ったのは、トラやクマが興奮して暴れ出し、火の手から逃れようと避難してきた人々を殺傷しかねないと判断されたからだ。修復された3点の中で最も大きい「花屋敷」(縦1・83メートル、横1・77メートル)は死と隣り合わせの緊迫した場面を写実的な筆致で描き出している。  これに対し、「酒匂川上空の飛行機」(縦1・47メートル、横1・55メートル)は壊滅した街並みを子細に描いてはいないが、被災地の広がりを示す。題材にされた双発の飛行機が飛ぶのは、小田原や山北方面。震災の被害は東京や横浜の大火を中心に語られることが多いが、震源に近かった神奈川県西部は激しい揺れによる家屋の倒壊と火災、土砂崩れに見舞われ、沿岸部には津波も押し寄せた。  遠方との通信のために放たれた伝書鳩(ばと)を見送る軍人がメーンの「伝書鳩」(縦1・47メートル、横1・54メートル)は、連絡手段が現代と大きく異なり、即時の状況把握が困難だったことをうかがわせる。 ■いまだ謎  この3点が“発掘”されたのは2010年。数々の資料や寄贈品が眠る慰霊堂収蔵庫に、神奈川大非文字資料研究センターなどが調査に入り、資料整理や目録作りを進めた成果だった。  「棚のようなところに、掛け軸が丸められたような状態で収められていた」と発見時の状況を振り返るのは、現在は小樽商科大学術研究員の高野宏康(40)。表面の下部にあるアルファベットのサインが決め手となり、徳永の作品と分かった。  一方、徳永の作品として復興記念館に展示されてきた1点にサインがなく、別人によるものと判明。その結果、徳永の手による絵画は記念館に13点、慰霊堂に8点の計21点が展示され、眠っていた3点を含む24点が所蔵されていることが確認された。  しかし、慰霊堂などが建てられた昭和初期に管理運営を担った東京震災記念事業協会の記録には、購入した徳永の作品として25点の名称が記されている。  そのうちの1点、「隅田川端の叫喚」がまだ見つかっていないことになるが、高野は言う。「24点と書いた別の目録もあれば、戦災で4点が焼失したとする資料もあり、全体像はなお分かっていない」 ■巡回展も  火災旋風などで3万8千人が命を奪われた陸軍被服廠(しょう)跡に建てられた慰霊堂や記念館で、震災の記憶を後世に伝える重要な役割を果たしながら、いまだ謎に包まれている徳永の震災画。被災直後の場面は東京が中心だが、崩れ落ちたれんがの上に犠牲者が折り重なる「横浜の全滅」、荒れ狂う海が家々をのみ込む「鎌倉の海嘯(かいしょう)」、根府川の列車転覆を題材にした「熱海線鉄路の崩壊」など神奈川の惨状も描いている。  アパート暮らしをしていた新宿で被災した徳永は1人でこれらを仕上げたのではなく、仲間の画家たちと取り組み、義援金集めなどを目的とした「移動震災実況油絵展覧会」を全国各地や米国で開いた。その詳細もこれまで分かっていなかったが、富山の巡回展の盛況ぶりを伝える当時の新聞記事が残っていた。発掘された3点が掛け軸状に巻かれていたことから、運搬が困難な20点以上もの大作を巡回展の際は丸めて運んでいたことも明らかになった。  「東日本大震災の惨状を多くの人が記録したように、関東大震災当時も衝撃を受けた人たちが写真や絵画などそれぞれの技法で被害を伝えようと取り組んだ。徳永もその一人で、必ずしも特筆的な活動をしたのではない」と語るのは、災害史研究家の北原糸子(74)。「ただ、火災旋風で吹き飛ばされる人々など直接目にしているはずがない場面もリアルに描いている。写真では伝えられない状況であり、震災の被害を知らしめる効果は大きかった」とみる。  =敬称略 ◇  「花屋敷」など修復された3点は復興記念館で28日まで特別公開中。そのほかの21点は記念館と慰霊堂に飾られているが、慰霊堂の8点は耐震改修工事の影響で8日以降は見学できなくなる。問い合わせは、東京都慰霊協会電話03(3623)1200。

    3. 在日米軍・防衛

      上司から暴行受け海自隊員自殺 横須賀

       海上自衛隊横須賀地方総監部(神奈川県横須賀市)は1日、護衛艦乗員の1等海曹(42)から暴行などを受けた部下の隊員が自殺したと発表した。総監部はいじめとパワハラなど不適切な指導があったと説明している。  総監部によると、警務隊が暴行と器物損壊の疑いで、1曹海曹を2日に書類送検する。  防衛省海上幕僚監部によると、1曹海曹は昨年10月、隊員の頭をペンライトで殴り、11月には平手で殴打した。12月には船の出入り口のハッチに手を掛けさせ、ふたを閉めて手を挟む暴行を加えていたという。  隊員は今年、護衛艦内で自殺。

    4. 社会

      離着陸時もスマホ使えます

       旅客機が空港を離着陸する際にも、1日からは通信用の電波が出ない「機内モード」にしたスマートフォンやデジタルカメラなどが使えるようになった。  電子機器の電波が計器に与える影響を懸念し、国は離着陸時の使用を禁じてきたが、規制緩和が進む欧米の動きを受け、機体の安全性を確認し解禁した。  通信電波が出るメールも、着陸後に滑走路を離れた時点で送受信できるようになった。通話は引き続き禁止。機内WiFi(ワイファイ)を使ったインターネット接続も法令上は常時使えるようになるが、航空各社はこれまで通り、飛行中に限りサービスを提供する。

    1. 社会

      敗戦信じぬ父 娘が語ったアナタハン島からの救出

       父は一族で経営していた漁船ごと海軍に徴用され、戦死したと思っていた。太平洋の孤島で生きていたと知った家族は「跳び上がってびっくりした」が、父は日本の敗戦をなかなか信じない。三浦半島突端の漁師町に残された家族らは父の救出に奔走し、兄は一連の関係資料を記録として残した。父の帰還時18歳だった娘は、当時を知る体験者として語る重みに少し戸惑うように、かすかな記憶を絞り出した。  「父を信用させるためにこんな写真を送った。投降させるため、手紙と一緒にね」。1944年1月に徴用された漁船「兵助丸」の機関長だった故石渡一郎さんの長女星野紀子さん(81)=三浦市栄町=が家族が写った白黒の写真を指す。  「マニラにて市街戦に従事中行方不明に付き戦死と認定する」という公報が届いたのは一郎さんを見送った半年後。葬式も終えていた。  戦後、母は6人の子を抱えてマグロ漁船員相手の下宿屋稼業を切り盛りした。紀子さんは、夜明け前からぬかみそ漬けを準備するなど母を手伝った。「物がない時代に、母は偉かったと思います。父が帰ってきて一番喜んだのは母だった」  一郎さんの生存が家族に知らされたのは50年秋。父の出征時11歳だった紀子さんは17歳になっていた。  一郎さんは帰還直後、アナタハン島での生活を振り返る手記を週刊誌に発表している。  「私らの生活を支えて来たものは、結局『必勝の信念』だった。何年かかっても、日本は必ず勝つということは少しも疑わなかった。(中略)戦争は続いている限り、きっと誰かが救いに来てくれるということを唯一の希望にして生きて来た」  島内ではパンの実とコウモリを主食に、4~5人で分散生活を送ったことなどを記している。  当時高校生だった長男の故石渡善雄さんは、父の救出に向けて奔走する。家には毎晩、親戚や当時の松崎定治・三崎町長らが集まり、善雄さんは県庁や都内の連合国軍総司令部(GHQ)へ足を運んだ。  松崎町長らの名で衆参両院などに提出された「アナタハン島残留者引揚促進方に関する請願書」(51年5月14日付)には「米軍に投降すれば殺されるといふ考へが今尚ほ彼等の頭を支配している」とし、家族は「如何なる危険あるも喜んで同島に説得に赴く覚悟であります」と記されている。  救出の決め手となったのは、家族から島へ送られた手紙と写真だった。善雄さんが考案し、各家族から集めたもので、米国によって51年6月に島の「ソンソン」と呼ばれる浜に届けられた。一郎さんは手記で「善雄からの手紙に一番心を動かされた」とし、「『必勝の信念』も瓦礫のごとくくずれた」と書いた。  同7月7日、一郎さんら生存者5人が7年ぶりに三崎町に帰還。善雄さんがまとめた写真集には5人を取り囲んで万歳する人々、自分の遺影や骨つぼを手に笑顔を見せる一郎さんの写真が収められている。紀子さんは「家には米国の記者も含め40~50人の記者がぞろぞろと来た。私は『泣いてくれ』とか言われて」と笑って振り返る。「1カ月くらいは記者でごったがえしていました」  しかし、一郎さんは多くを語らなかった。生来が真面目で石頭。紀子さんは後に、戦後28年間グアム島に潜伏していた横井庄一さんについて父が発した言葉を覚えている。「横井さんみたいに1人だったら俺は生きていられなかった。横井さんの精神力はすごいもんだな」  島内唯一の日本人女性をめぐる話でも当時から大きな注目を集めた事件だったが、兄は記憶の風化を見越していたのだろうか。父の帰還直後、大学生になっていた善雄さんは一連の資料を2冊にまとめた。「父の大切な記録で、宝。伝えなければいけない」と話していたという。兄が残した記録を基に、記憶をたどる紀子さんは「掘り起こしてくれる人がいたから、兄も浮かばれるというか、喜んでいると思う」と話す。  フリーライターの森田喜一さん(79)=同市栄町=によると、他にも三崎を拠点とする漁船や調査船が徴用され、命を落とした船員もいる。  「小さな漁船まで駆り出さなければならない、すごい負け戦だったんですよね」。紀子さんは、つぶやいた。 ■貴重な資料の公的管理を 元三浦市職員・ 山口勝さん(83)  三浦市内で戦争に関する資料収集、展示などを行ってきたが、アナタハン島の事件は三浦市の戦争被害を語る上で欠かせない。市内では大規模な空襲や爆撃はなかったが、船員ごと漁船が徴用されて物資輸送や洋上監視に使われ、亡くなった人もいる。  三浦の戦争は1945年8月15日で終わらずに、ずっと戦争の傷を引きずってきた。その大きな一つがアナタハン島の事件だ。  船員の帰還当時、大きな話題になり、旧三崎町にとってとてつもなく大きな事件だった。私は当時、町役場に勤めていたので、町を挙げての「救出だ」「国会へ請願する」などといった騒ぎは知っていた。だが展示をするにあたり、これまではろくな資料がなかった。  もう一つが1954年のマーシャル諸島ビキニ環礁で行われた水爆実験。三崎を母港とする遠洋マグロ漁船が被害を受け、後に市の公式記録がまとめられた。  この二つの事件を踏まえてこそ、初めて三浦は終戦を迎えたと言えるのではないか。戦争は赤紙で召集された人だけでなく、いろんな立場の人がいろんな体験をし、死に直面した極限の状態を経験してきている。そうした体験を大事にし、語り継いでいかなければならない。  資料収集のため市内を訪ね歩くと、民間が所有している品物などが集まる。中には「自分が死んだらどうなるか分からない」という人もいる。孫、ひ孫の世代になって処分されてしまうかもしれない。戦後70年を前に、語り継ぐ上での大きな課題だ。  資料は公的な管理をしなければ残りにくい側面がある。今回のアナタハン島の資料は三浦の戦争を語る貴重な記録で、公的に管理するのがいいのではないか。

    2. 高校野球

      全国高校軟式野球:三浦学苑、初優勝ならず 延長50回制した中京がダブルヘッダーで頂点

       全国高校軟式野球選手権大会最終日は31日、兵庫県明石市の明石トーカロ球場で行われ、4日間にわたる延長五十回の準決勝を制した中京(東海・岐阜)が、決勝で三浦学苑(南関東・神奈川)を2―0で破り、2年ぶり7度目の優勝を果たした。

    3. 経済

      増税の夏集客好調も… 10%引き上げ懸念 神奈川県内の観光業界

       消費増税後、初めての夏が終わろうとしている。景気回復の先行きを占うとして注目された今夏の消費動向だが、県内の観光業界はおおむね活況。29日発表の家計調査で消費支出の落ち込みが目立ったのとは対照的に、「増税の影響はあまり感じない」との声が相次いで聞かれる。ただ、安倍政権は税率8%から10%への引き上げを年内にも判断するとみられ、再び増税となった場合の消費マインドの冷え込みを懸念する声も上がっている。  増税に伴い4月に入場料の一部を改定した新江ノ島水族館(藤沢市)。夜の館内を映像で演出するプロジェクションマッピングが功を奏し、今夏の来場者は昨年と比べ約3~4割増えた。「昨年とは営業時間も違い単純比較できないが、若いカップルを中心に大勢の方に来場していただいた。増税の影響はない」。担当者は力を込める。  横浜・八景島シーパラダイス(横浜市金沢区)も、夏休みのイベント効果により、入館者数は29日時点で昨年比8%増という。  天候不順だった今夏。雨に振り回された施設もあった。ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル(同市西区)ではビアガーデンが伸び悩んだ結果、レストラン部門は昨年夏の実績に届かなかったという。一方で客室は高い稼働率を維持し、宿泊部門は昨年を上回った。「増税の影響は感じない」と話す担当者は「天候さえ良ければ…」と残念がる。4~6月は苦戦したという横浜ベイシェラトンホテル&タワーズ(同)も「8月はレストラン、宿泊とも前年を上回りそう」と回復の手応えをつかむ。  増税後とはいえ、消費者の観光や旅行への意欲は、大きく落ち込んでいない様子。JTBでは現在、天候不順により8月にキャンセルとなった国内旅行を、9月にずらして申し込む客が目立つという。  一方で、気掛かりなのは消費税が再び引き上げられるか。観光や旅行は、消費マインドによって大きく左右される。「10%になった場合、ツアーの販売状況に影響が出ないとは言い切れない」と近畿日本ツーリスト。JTBも「賃金やボーナスの上昇といった先行きの明るさが見えていれば良いのだが…。今後、景況感がどう変わっていくのか注目したい」と話す。  旅行業界にとって増税以外の、もう一つの懸念材料は都市部でのホテル不足。2020年の東京五輪開催に向け、訪日外国人客の増加が見込まれているが、都内では既に不足が指摘されている。「増税による価格改定に加え、ホテル不足によって今後、価格が上昇する可能性がある」(近畿日本ツーリスト)。業界にとっても、消費者にとっても、悩ましい状況が続きそうだ。

    4. LIFE

      自作のエコカー疾走 横須賀で大会 29チームが参加

       自作の車でいかにいい燃費で走るかを競う「かながわエコカー競技大会」が30日、横須賀市夏島町の日産自動車追浜工場のテストコースで開かれた。  県立産業技術短大などで構成する実行委員会が主催し、9回目。中学校から社会人まで県内外の計20チームが参加した。  50ccエンジンを1人乗りの車に搭載し、平均時速25キロ以上で1周1・6キロのコースを10周走行。使った燃料から1リットル当たりの走行距離を算出し、順位を競った。  多くのチームが空気抵抗を抑えるために車高を低くしていたが、形状や色合いはさまざま。コースを走る個性的な車の数々に、「頑張れ」などと声援が送られていた。  上位の結果は次の通り。かっこ内は1リットルあたりの走行距離(キロ)。  ▽1位・Team nizmo(728・92)▽2位・大森学園高校自動車部A(527・09)▽3位・同校自動車部B(464・13)

    1. 社会

      極寒、重労働、飢餓…シベリア抑留の傷痕なお 本社OB証言

       満州事変から太平洋戦争へ、およそ15年に及んだ昭和の戦争は1945年8月15日の玉音放送で実質的に終わった。が、終戦によって全ての日本人が平和を手にしたわけではない。異国で新たな“戦争”を強いられた同胞がいた。例えば、ソ連軍によってシベリアなどに抑留された関東軍将兵ら約57万5千人。5万5千人以上の死者を出した地獄から、元神奈川新聞社社員、関谷義一さん(86)=長野県長和町=は生還した。当時、18歳。極寒、重労働、飢餓の日々を、関谷さんは静かに語り始めた。  43年、16歳で陸軍少年飛行兵になった。「アッツ島守備隊の玉砕、山本五十六元帥の戦死…。居ても立ってもいられず、親に内緒で志願しました」  操縦、通信、整備の課程があり、関谷さんは通信兵に。戦局が厳しく、2年で訓練を終えて戦地に送られた。関東軍の隼(はやぶさ)9876部隊に属し、朝鮮半島から旧満州(現中国東北部)を転戦。終戦時は奉天(現瀋陽)に駐屯していた。  ソ連軍による武装解除後、朝鮮半島の新義州に移送。冬になって船に乗せられた。ソ連兵は「トウキョウ・ダモイ(東京への帰還)」と繰り返し言うが、船は北に向かうばかり。次いで凍結した海上を歩かされ、着いたのはハバロフスク地方だった。それまでに多くの死者が出た。  収容所の話に及ぶと、関谷さんの口が重くなる。零下30度、凍傷の恐怖、森林伐採や炭鉱現場の重労働、過酷なノルマ、わずかなパンと薄いスープ、絶え間ない飢え。戦友が次々に倒れる。食べ物をめぐる捕虜同士の争い、密告。ポツリと「餓鬼畜生、でした」。46年の元旦はウラジオストクで迎えた。  収容所を転々とし、スーチャンで、後に「誰よりも君を愛す」「いつでも夢を」などを手掛けた作曲家・吉田正と出会う。吉田は収容所で「異国の丘」などを作った。「みんな一緒に祖国に帰ろう-。吉田さんの歌に励まされました」  虜囚生活3年。48年8月、ソフガバンの収容所からナホトカに移り、復員船で祖国の土を踏む。  大学を出て、53年、神奈川新聞社入社。庶務課長、編集局校閲部員などを務めた。在職中、抑留についてほとんど語らなかったという。「あまりにつらくて。でも、体験者が少なくなり、『歴史を伝えなければ』と思うようになりました。帰国までの長い道のりのように『やっとたどり着いた』心境です」  生還から66年を経た夏。傷痕は、なお生々しい。 ◆シベリア抑留 日本の敗戦後、旧ソ連は旧満州に展開していた関東軍将兵らをシベリアなどの収容所に移送、強制労働に動員した。厚生労働省によると被抑留者は約57万5千人(それ以上とする説もある)。軍属、従軍看護婦も含まれていた。極寒、重労働、飢餓で約5万5千人が死亡。1991年のゴルバチョフ大統領(当時)の来日を機に遺骨収集が始まり、昨年度末までに1万9302柱が収容された。93年に来日したエリツィン大統領(当時)は「謝罪の意」を表明した。

    2. カルチャー

      【動画】「いい捨てっぷりだった」 でんぱ組・夢眠ねむさんが衣装を≪アート・ビン≫に投棄

       「東アジア文化都市2014横浜」広報親善大使を務める「でんぱ組.inc」が「ヨコハマトリエンナーレ2014」に来場。メンバーを代表して夢眠ねむさんが、横浜美術館会場に展示されている芸術のための巨大なゴミ箱≪アート・ビン≫(マイケル・ランディ作)の作品投棄に参加。約7メートルの高さから、自らデザイン・制作した衣装を投棄した。

    3. ベイスターズ

      8/30の試合 横浜DeNA5-4巨人

       【評】横浜DeNAがサヨナラ勝ちした。3-4の八回にグリエルの8号ソロで同点。延長十回は先頭打者からの3連打などで2死二、三塁として桑原の左前打で試合を決めた。巨人は終盤に一時は逆転に成功したが、最後はマシソンが打たれた。

    4. 社会

      漁船徴用の痕跡 「弟は軍にだまされ、戦死した」92歳、抱え続けた怒り

       「ひと目見て70年以上前、弟の弘が乗った相模丸と分かった」。三浦市の川名多喜子さん(92)は、しっかりと記者の目を見据えて語った。神奈川新聞で今月、戦時中の旧日本軍による漁師・漁船の徴用について連載をした。記事に添えられた船の写真を見て連絡をくれたのが、川名さんだった。徴用の末、米軍に撃沈され乗組員が全滅した相模丸。忘れることのできない船だったという。「海軍は『任務は敵を監視するだけ。戦争ではない』と言った。弟はだまされ、戦死した」。戦後69年間、抱え続けてきた怒りがほとばしった。 ■「学生」のまま 一家は、父母と弟2人の5人で三崎に暮らしていた。川名さんは、県水産講習所(現県立海洋科学高校)に通っていた3歳違いの弘さんを「未来の船長」と呼び、かわいがっていた。  弘さんは1940(昭和15)年、15歳で講習生として相模丸に乗り込んだ。同船(135トン)は、県水産試験場(現県水産技術センター)の漁場調査船。カツオ、マグロの漁場開拓が目的で、地元の漁師のほか、数人の講習生が乗り込み、漁業の実習を受けていた。  当時は日中戦争のさなかだったが海には影響はなく、弘さんは同船で南洋まで航海した。だが翌年、太平洋戦争が始まると、戦況は悪化の一途をたどっていった。軍は民間の漁船などを徴用したが次々に撃沈され、船を補充しなければならない状況に追い込まれていた。相模丸は42(同17)年1月、横須賀鎮守府配下の警備隊に徴用された。  任務は、米軍の戦闘機、艦船の監視。海軍は、未成年である弘さんに、そのまま船に乗り続けるよう求めた。家族には「遠くから監視するだけ」と説明したため、川名さんらはそれほど心配をしていなかった。弘さんは、学生の身分のまま徴用された。  弘さんは数回、帰港した。久しぶりに会う弟に仕事の内容を問うと「軍機だから」と詳しくは話してくれなかった。「大丈夫かい」と聞くと、「何でもないよ。おっかなくないよ」。だが、明るかった弟の口数は、減っていた。 ■写真一枚だけ 弟の身を案じた川名さんは、本人と船の写真を手元に置こうと考えた。「毎日無事を祈りたかったの」。県の船だったので、父親に頼んで、県庁に写真をくれるよう頼んだ。  だが、徴用は軍の秘密作戦だった。県庁からは「とんでもない」との返事が届いた。警察からは「秘密作戦を漏らす可能性あり」とにらまれたのか、刑事が自宅を訪ねてきた。  43(同18)年6月18日、相模丸は米軍から攻撃されて撃沈した。弘さんは19歳の若さで、20人の乗組員とともに命を落とした。  川名さんは当時、家族と離れ東京都内で過ごしていたが同月下旬、末の弟で漁師の貢さんが会いに来た。「にいちゃんの船からの無線が切れて、行方不明なんだ。かあちゃんが泣き通しで大変だから、ねえちゃん家に帰ってよ」。急いで実家に戻った。  三崎では、漁船の無線が切れるということは遭難を意味した。「弟は戦死したのだろう」と覚悟を決めた。 ■泣いてばかり 戦死公報は、その年のうちに届いた。弘さんは「名誉の戦死」として周囲の人々から祭り上げられ、家族全員、誇らしい態度を取っていた。だが家に帰れば泣いてばかりだった。「当時は、戦死について涙は見せていけないものだったから。口先だけで勇ましいことを言っていました」  横須賀鎮守府から遺骨を取りに来るよう連絡があった。だが、海の底に沈んだ遺骨が返ってくるはずもなく、骨つぼ代わりの白木の箱は空だった。鎮守府に詰めていた記者から弟の写真をもらい、遺骨の代わりに入れた。軽くて空っぽの箱を抱いて帰るのは、とても切なかった。  戦争が終わったのは、弟が死んだ2年後だった。相模丸の沈没した記録や徴用の契約はしっかり残っており、戦後補償を受けることはできた。だが悔しさは、消したくても消すことができなかった。  弘さんの夢は、船長になることだった。だが、不条理にも断ち切られてしまった。絶対に生きていてほしかった。  川名さんは、運動機能の衰えで現在、介護施設に入所している。新聞に掲載された相模丸の写真に、これまでの思いが噴き出したという。戦後知ったことだが、弘さんの徴用時、神奈川の海には敵潜水艦が多数出没し、切迫していた。川名さんは語る。「海軍はよくこんな状況で『大丈夫』と言えたものです。無念の思いを抱いて戦死した弟。軍にだまされ、戦争にいや応なしに参加させられるような世の中は、もうたくさんです」